
シン・ゴジラとヤシオリ作戦(八塩折作戦)
『シン・ゴジラ』の終盤、ゴジラの活動を凍結させる作戦は「ヤシオリ作戦」と命名された。この名は、日本神話でスサノヲがヤマタノオロチを討伐する際に使った「八塩折之酒(やしおりのさけ)」に由来している。神話において、スサノヲはこの強い酒をオロチに飲ませ、眠り込んだところを「解体」した。
しかし、ゴジラは解体されなかった。「ヤシオリ作戦」というネーミングは引き継ぎつつ、その結末までは引き継がなかったのである。
古来から日本において怪物が完全に討伐されるのは例外的なのである。多くの場合、彼らは鎮(しず)められ、祀(まつ)られることで人間との共存の道が図られる。たくさんのコンクリートポンプ車が一斉にゴジラの口へ血液凝固剤を注ぎ込む光景は、「荒ぶる神に酒を(少々強引ではあるが)奉納して鎮めている」、これは「神事」と言っても良いのではなかろうか。
ゴジラというクラシックな題材を用い、日本の伝統的な「荒ぶる神の鎮魂と共存」の流れを作り、同時に福島第一原発事故への対応を再演する。『シン・ゴジラ』、まさにお見事というほかない。
「荒ぶる神」を鎮める
西洋の「ドラゴン退治」の論理であれば、脅威は完全に消し去らねばならない。実際、劇中でもアメリカを中心とした多国籍軍が、東京への熱核兵器投下によってゴジラを「完全消去」しようと迫る。もちろんこれは、自国が現場である日本と、対岸の火事として冷酷な判断ができる他国との温度差の描写でもある。しかし構造的に見れば、脅威を徹底的に殲滅しようとする西洋的なスタンスそのものである。
日本が選んだ方法は、凍結という名の「鎮魂」である。「荒魂ー荒ぶる神ー」のまま、首都のど真ん中にゴジラを置き、日本政府と国民は「人類はゴジラと共存していくしかない」と、淡々と日常に戻っていく。
これが、日本人の宗教観である。「鎮める」「祀る」「畏れながら共存する」というのが、日本人が自然の猛威と向き合ってきた一貫した作法である。ヤシオリ作戦による凍結も、「共存するしかない」という諦念も、日本的な世界観においては正統な対応なのだ。
第5形態の意味
映画のラストは、凍りついたゴジラの尻尾の先端から、無数の人型の群体が這い出そうとして固まっている光景である。これについて公式は「ゴジラは次の進化段階=第5形態へ移行しようとしており、それは小型の人型ゴジラが大量に発生する形態だった」としている。そして、このシーンがあることによって、「鎮魂と共存」という人間側の営み、それ自体をさらに浮かび上がらせることになっている。
ここまでの物語には、途方もないスピードで進化していくゴジラという巨大な一体の怪物に対し、どうにかこうにか「荒ぶる神」としての神性を想定し、ヤシオリ作戦という「儀式」を通じて鎮めることができた、と、そういう神話的な筋書きがあった。これは西洋的な「ドラゴン討伐」とは異なる日本的解決法の提示でもあった。
しかし、あの巨大な個体は、容易に無数の小さな群れへと分裂しようとしていた。一個の生命体、あるいは一個の神格として向き合っていたはずのものが、実は中心となる魂など持たない、環境に適応して増殖するだけの「得体の知れないシステム」であったことが示されたのである。
「神性」はあくまでも人間が勝手に投影していたものであった。これは人間の意味づけをはねつける「絶対的な他者性」である。たまたまうまく行ったものの、八塩折(やしおり)の酒をたらふく飲んで眠りこけたヤマタノオロチとは、全くの別物であったのだ。
絶対的な他者である無機質なシステムに対して、伝統的な日本的解決法で対処した。古来から日本人はこうすることで脅威に対処してきた。ここで我々は逆に、「意味のないものに意味を見て、自らの世界観を維持してきた人間のいじましさ」を、作品を遡って静かに鑑賞することができる。
『シン・ゴジラ』は、日本の伝統的な神話的対応を描ききった上で、最後にその底を抜き、絶対的な他者性を提示してみせた。それにより、虚無を前にしてなお物語を紡ごうとする我々の生存様式が浮き彫りになる。