
フェアリーテイル・ノスタルジア
森のことを書いていたら、グリム童話に出てくる森のノスタルジックな魔力で頭が占められてしまった。西洋人でもないのに郷愁を感じるのもおかしな話だが、こういうのを「フェアリーテイル・ノスタルジア」と言うらしい。
中世ヨーロッパの森は、危険がありながらも、勇気さえあれば奥へと入っていける場所であり、運と強さがあれば帰ってくることも可能であった。その意味で「死にに行く場所」としてラベリングされてしまった日本の青木ヶ原樹海とは根本的にちがう。
たとえば…… 「ヘンゼルとグレーテル」は森の奥に置き去りにされるが、最終的に魔女のお宝を獲得して生還した。 「白雪姫」も森の奥で小人たちに匿われ、結果的に帰ってきた。 「かえるの王子様」も、そこで出会った王子とお姫様が結婚することになる。
闇のグラデーション
現実的な人は「原生林ならば藪(ヤブ)が生い茂って、そんなに奥までは歩けないのでは?」と思うだろう。しかし、どうやらそれが違うらしいのだ。
ヨーロッパで家畜を飼うには、あまり人手はかからない。要するに、そこらに放牧しておけば、かってにおおきくなる。休耕地が家畜の放牧に利用されたのも、こうした 自然条件のせいである。また、日あたりのよいところでさえ、自然の草類がやわらかいままで成長をとめるのであるから、森林の下草が繁茂したりはしない。家畜とくにブタなどは、自由 に森林に出入りして、ドングリの実などを食べて成育する。
世界の歴史<9>ヨーロッパ中世 鯖田豊之 河出文庫
つまり、私たちがアニメや映画で見た「フカフカの落ち葉のカーペットが敷き詰められた森」は、決してファンタジーではなく、中世ヨーロッパのリアルな環境だったのだ。
森に入っていくと、最初はブタが地面を嗅ぎ回っているのを時々見かけるが、さらに奥へと入っていくと、豚も見かけなくなり、村の鍛冶屋の立てる「カーンカーン」という鋭い音も遠くなり、木々の密度は濃くなり、日光は遮られ、闇はさらに濃くなっていく……
物理的に進行を邪魔する下草がなく、急な斜面もなく、どこまでも奥へ入っていけてしまう暗くて巨大な森。当時の森は、人々の暮らす明るい村外れから、魔女や亡霊が跋扈する暗い深海のような最奥エリアまで、シームレスに繋がっていた。空間そのものが「闇のグラデーション」になっていたのである。
なんと冒険心をくすぐる環境だろうか!!
身近にそんな森があれば、人々の想像力は際限なく膨らむ。もちろんそこは恐ろしい場所だが、人間は、そうした得体の知れないものが潜む「闇の領域」を心のどこかで必要としている。
闇の喪失
しかし残念ながら、こうしたヨーロッパの森は今はもうない。18世紀以降、成長の早い同種の木だけを等間隔に植林するようになってからである。森の面積自体は変わらなくても、そこは人間に完全に管理された「木材農場」になってしまったのだ。
それは、当時のヨーロッパ人にとって巨大な喪失だった。啓蒙主義と工業化によって世界が明るくなり、現実の空間から森の闇が消え去ったことへの反動として、彼らはホラー小説を流行らせ、ロマン主義という形で内なる闇を求めた。グリム兄弟がドイツ各地を回っておとぎ話を採集し、出版したのもこの頃である。彼らは失われつつある森の闇をそういう形で維持しようとしたのだ。
逢魔が時
日本はどうだろうか。
すでに書いたことだが、私たちには、ヨーロッパの森のような「奥に行けば行くほど暗くなる、空間的な闇のグラデーション」はもとより存在しなかった。村外れに行けば、そこには急斜面と深く絡み合ったヤブに阻まれる「山」がそびえ立ち、奥へ進むには、左右を絶壁やヤブに挟まれた極端に細い道を通るしかなかった。
このように空間的なグラデーションを物理的に絶たれた日本において、闇は「深い森の奥」に広がるものではなく、つねに「日常のすぐ隣」にあった。闇は、村の境界、四辻、橋、井戸といった日常の隙間に、圧縮されてへばりつくしかなかったのである。
さらに日本人は、空間では体験できなかったグラデーションを「時間」に託した。夕暮れ時、徐々に暗くなり、世界が闇へと変わっていく時間のグラデーションに、魔物が現れる恐怖を表現した。それが「逢魔が時」である。
国土のほとんどが険しい山である日本において、無意識の海へとゆっくり潜っていくような空間は存在しなかった。現代の日本に生きる私たちが、ヨーロッパ産のスケールの大きな「フェアリーテイル・ノスタルジア」に強いロマンを感じるのはそのせいではなかろうか。
それは、私たちが本来持っていなかった「水平方向へと無限に広がる、歩きやすい無意識の海」に対する、強烈な憧れなのだ。私たちがRPGの平らな森を画面の中で歩き回る時、実は、ヨーロッパ人がかつて喪失した「至高の闇」を、密かに体験しているのである。
