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意識の意味(ユング自伝の誤訳)

ユング自伝にアフリカを旅したことが書かれています。そこにはたくさんの見たことのない動物の群れを眼の前にして「自分がこれを作り出したのだ」と思うシーンがあります。私は学生の頃に読んで非常に心を動かされた記憶があるのですが、どうもユングの言いたいことをちゃんと理解できたという自信が持てませんでした。

しかし、ネット上にあるユング自伝の英訳(Full text of “Memories, Dreams, Reflections Carl Jung)と読み比べることによって、自信を持てなかった理由がわかりました。どうやら誤訳のせいだったようです。私の尊敬する河合隼雄先生他お二人の先生方が翻訳を手掛けておられるのであまり悪く言いたくないのですが、東アフリカの旅での「人間の意識の存在意義」に関する考察には特に誤訳が多いようです。

ここではまず、みすず書房のユング自伝の該当箇所をそのまま引用します。

草を食み、頭を上下にふりながら、獣たちは緩やかに流れる川のように、前へ前へと移動していた。肉食の猛禽があげるメランコリックな叫びのほかには、なんの物音もしなかった。永遠の原始の静寂があり、きっといつもそうであったように非存在の状態にある世界があった。①というのは、つい最近まで「この世界」があることを知るものは誰もいなかったのである。私は同行者が見えなくなるところまで離れて行って、そこでただ一人でいるのだという感じを味わった。②そのとき私は、これが世界であり、そして人類がこの瞬間に自分の知識によって、はじめて現実的に作り出したということを知った最初の人類であった。

ここで私には意識の宇宙的意味が痛切に明らかとなった。錬金術師たちは「自然が不完全なままに残したものを、技術が完全にする」という。③人類、つまり私が客体的存在として認めれば、それによってはじめて、見えざる創造行為のなかにある世界が完成される④この創造の業は、ふつうは創造主の御手によると考えられているが、そう考えると生命や存在を計算しつくされた機械とみなし、人間の精神も含めて、あらかじめ熟知され、決定された法則によって、無意味に経過し去って行く機械とみていることになるとは考えつかない。このような味気ない正確さばかりの空想には、人間と世界と神との演じるドラマはない。「新しい岸」に導く「新しい日」はなく、ただ計算され尽くした退屈な過程をたどるだけである。年老いた、あのブエブロインディアンのごとが、私の心に想い出された。ブエブロ族の存在理由は、彼らの父である太陽の運行を日毎に助けることにあった。私はそのプエプロ族の信仰の意味に充ち足りているのを羨ましく思い、われわれの固有な神話にもなにかありはしないかと求めてみたが、望みのないことだった。⑤人間にとっては創造の完成が不可欠であり、実際に人間が第二の世界創造者そのものとして、世界をはじめて客体的存在たらしめるものであることが、私にははっきり分った。世界に客体的存在が付与されていなかったら、世界は聴こえず、見えず、音もなく食べ、生まれ、死に、頭をうなだれて、幾億年もの間の時が流れ、非存在の深夜のうちに、果しない終局を迎えるであろう。人間の意識が客体的存在と意味とをはじめて創り出し、そしてそうすることによって人間は偉大な存在過程に不可欠な座を見つけるのであった。

目次

①というのは、つい最近まで……

永遠の原始の静寂があり、きっといつもそうであったように非存在の状態にある世界があった。❌①というのは、つい最近まで「この世界」があることを知るものは誰もいなかったのである。


誰にも知られていなかった「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカなのだから、下線部、「つい最近まで『この世界』があることを知るものは誰もいなかったのである」で何の問題も無いように思われます。翻訳者もそう考えたのでしょう。しかし、ここは正しい翻訳のほうがちょっと難しいのです。

この一文には、ここから先の文章でユングが言いたい内容が込められているのです。

This was the stillness of the eternal beginning, the world as it had always been, in the state of non-being;

①for until then no one had been present to know that it was this world.

Full text of “Memories, Dreams, Reflections Carl Jung” (下線は引用者)

こなれた日本語にすると、

それは永遠の始原の静寂であり、世界はこれまで常にそうであったとおりに非存在の状態にあった。⭕️というのは、つい最近までここには『これが世界だ』と知る者がいなかったからである。

それでも下線部は分かりづらいです。この部分には説明が必要です。
野生動物は本能によって世界の一部として生かされている存在です。つまり世界と一体化している野生動物は世界を見ることが出来ないのです。「これが世界だ」とわかるのは、世界と自分を区別する人間だけなのです。

人間は「意識」によって世界や本能から距離を取り、世界の存在を知る。一方、世界と一体化し、本能のままに生きている野生動物は世界の存在を知らないのです。

つまり、人間が来る前、そこには世界の存在を見る「意識」が無く、全ては一体化した状態であった。これをユングは「永遠の始原の静寂」「非存在の状態」と呼んでいるのです。

「❌『この世界』があることを知るものは誰もいなかったのである」としてしまうと、「意識を持った人間」と「世界と一体化して生きている野生動物」とを比較するニュアンスが欠けてしまうのです。

これを理解すればこのあとはだいたい同じことを繰り返して言っているだけです。

②そのとき私は……

私は同行者が見えなくなるところまで離れて行って、そこでただ一人でいるのだという感じを味わった。❌②そのとき私は、これが世界であり、そして人類がこの瞬間に自分の知識によって、はじめて現実的に作り出したということを知った最初の人類であった。

この訳文は正確に理解しようとすればするほどわけがわからなくなります。おそらく翻訳している人自身も理解できていないのではないでしょうか。英文(Full text of “Memories, Dreams, Reflections Carl Jung“)を参照したいところですが、ここの部分は英文と(原文である)独文が若干違っているようので、独文を引用しなければなりません。

Ich entfernte mich von meinen Begleitern, bis ich sie nicht mehr sah und das Gefühl hatte, allein zu sein. Da war ich nun der erste Mensch, der erkannte, dass dies die Welt war und sie durch sein Wissen in diesem Augenblick erst wirklich erschaffen hatte.

私は独語が読めないのでこれをAIで英文に翻訳します。

I moved away from my companions until I could no longer see them and felt myself alone. Then, I was the first human being present to recognize, “this is the world”—and, by that very act of knowing, to have truly created it in that moment for the first time.

そして和訳します。

⭕️私は同行者が見えなくなるまで離れ、ひとりであることを味わった。その時、私は「これが世界だ」と知る唯一の人間であった。そして、その知るという行為によって、はじめて世界が作り出されたのだ。

先程も言ったように、アフリカのその景色は、つい最近まで誰も見たことがない世界でした。それはつまり、人間の意識によって存在を認められることはなかったということです。ユングは、その時その瞬間、自分だけがこの世界を見ている状況を作り出すために、同行者と離れて一人になりました。そして、この「知る」「認識する」という行為によって、その時その瞬間、この世界は作り出されたと感じたのです。

いやいや(笑)、何言ってるの。
ユングが作り出したんではなくて、大昔からそこに動物たちはいたんだよ。

それが常識的な考えです。でも、さっきも言ったように動物たちには意識がないのです。世界と一体化した動物たちは、自分と世界を区別しないのです。つまり世界を対象として認識する視点を持たないのです。人間が世界を対象として認識することによって初めて世界は存在できたということです。

うーんわかったようなわかんないような……

わかりやすくいうと、動物は世界に埋め込まれてしまっているのです。だから世界を見られない。人間がいなければ、誰も世界を見ること無く、世界は存在の確証を得られないまま「世界の終わり」を迎えてしまう。しかし、人間は世界から抜け出して、一歩引いて見ることができる。それによって世界を存在させることができたのだ、とユングは言いたいのです。

ちょっとわかったような……

38億年前に地球上に生命が生まれてからずっと、生命は本能に従って世界と一体化し、延々と誕生と死を繰り返してきた。この状態を「非存在の闇」の中にある状態なのです。そのため、これを意識によって認識するということは、「世界を作り出した」に等しいのだとユングは言うのです。

③人類、つまり私が……

❌③人類、つまり私が客体的存在として認めれば、それによってはじめて、見えざる創造行為のなかにある世界が完成される

英文から

Man, I, in an invisible act of creation put the stamp of perfection on the world by giving it objective existence. 

ここの「invisible act of creation(見えざる創造行為)」とは人間の認識を指していると思われます。ちょっと意訳して……

⭕️人間、つまり私の(認識という)目に見えない創造行為によって、世界に『客観的存在』という完成のスタンプが押される。

要するにここでも同じことを繰り返しています。人間の意識が認識することで世界は存在するのだということです。

④この創造の業は……

④この創造の業は、ふつうは創造主の御手によると考えられているが、そう考えると生命や存在を計算しつくされた機械とみなし、人間の精神も含めて、あらかじめ熟知され、決定された法則によって、無意味に経過し去って行く機械とみていることになるとは考えつかない。

最後を「考えつかない」としていることでさらにわかりにくくなっています。

This act we usually ascribe to the Creator alone, without considering that in so doing we view life as a machine calculated down to the last detail, which, along with the human psyche, runs on senselessly, obeying foreknown and predetermined rules.

⭕️この行為を我々はたいてい創造主ただ一人に帰してしまう。だが、そう考えることで、生命を細部に至るまで計算し尽くされた機械と見なし、前もって知られ決められた法則に従って、無意味に動き続けるものと見てしまっており、しかもそこに人間の精神も含めてしまっていることに気づいてない。

意味がわかっていれば最後は「気づいていない」「思い至らない」になるはずだと思います。

つまり、キリスト教文化圏においては神がすべてを創造したと言われているが、そうなるとこの「人間の精神」も神が創造したということになる。でも、人間の精神は、生物学の対象となるような機械的なものじゃない、位置づけが違うんじゃないかということです。

⑤人間にとっては……

⑤人間にとっては創造の完成が不可欠であり、実際に人間が第二の世界創造者そのものとして、世界をはじめて客体的存在たらしめるものであることが、私にははっきり分った。

人間にとっては創造の完成が不可欠であり」は、それ以降の文と意味が噛み合いません。独文を確認します。

Der Mensch ist unerläßlich zur Vollendung der Schöpfung

英文に翻訳します。

man is indispensable for the completion of creation

これを和訳します。

⭕️創造の完成には人間が不可欠であり

となります。「man is indispensable」なのですから「❌人間にとっては不可欠」ではなく「⭕️人間が不可欠」なのです。世界の完成には人間の意識による認識が不可欠なのです。

まとめます

できるだけすんなりと理解できるようにするために手を加えたものが以下の内容です。

草を食べ、頭を上下にふりながら、動物たちは緩やかに流れる川のように、前へ前へと移動していた。肉食の猛禽類があげるメランコリックな叫びのほかには、なんの物音もしなかった。

私は同行者が見えなくなる場所まで移動した。そして一人でその景色を見た。その時、私はこの景色を認識する唯一の人間であった。つい最近までここは野生動物だけが生きていた世界であり、『これは世界だ』と認識するものは居なかった。つまり、そこは「非存在の状態にある世界」だったのである。

その時、この「認識する」という行為によって、はじめて眼の前の世界が作り出されたのだ、と私は気付いた。ここで私には「意識」の宇宙的意味が痛切に明らかとなったのである。意識の「認識する」という行為によって、その対象物に『客観的存在』という完成のスタンプが押されるのだ。神による創造の完成には人間が不可欠であり、人間が第二の世界創造者として、世界をはじめて客体的存在たらしめるものなのだ。

人間に認識されなければ、この世界は誰にも聴かれず、見られず、動物たちは無言のうちに食物をむさぼり、仔を産み、死に、うなだれながら幾億年の時を過ごし、非存在の闇の中のまま、果てしない世界の終わりへと沈んでいくのだ。

人間の精神だけは、神によってあらかじめ創造されたものではない。仮に、人間の精神も含む何もかもが、前もって決められた法則に従って動き続けるものだと考えると、人間・世界・神とのあいだで演じられるドラマは起こり得ない。そこには新しい発見や新しい体験、新しい明日はない。それは計算され尽くした延々と繰り返される退屈な世界でしかない。

人間の意識こそが、世界に初めて「客観的な存在」と「意味」を与える。そのことによって、人間はこの偉大な創造の歴史の中に不可欠の位置を得ているのだ。

このユングの旅は1925年のことであり、この時期、アフリカは暗黒大陸と呼ばれていました。テレビも無く、撮影機器もほとんど無かった当時、アフリカは西洋人にとっては未知の領域でした。たくさんの生命がはぐくまれている場所。そしてそこは人間にとって未知の場所。そんな場所を最初に目にした人は、どんな感覚になるでしょう。

ある世界に人間という意識を持った存在が初めて踏み入れた時、その世界は根本的な変化が起きたと言うべきなのではないか。ユングは意識を持たない動物と人間とを比較しつつ、世界における人間の存在意義というスケールの大きい話に展開させていきました。論理展開がちょっと強引に思えることもあるかも知れません。しかし、もし我々がユングと同じ経験をしたら同じように感じるのではないでしょうか。

探検家が自分の功績を振り返ってみた時に感じる興奮とは、「意識による認識」というものの持つ特別な意味をその前提とするのではないでしょうか。

人間だけが世界を見ることができる。眼の前にいる何千、何万という馴染みのない動物たちはそうした意識を持たない。そうした場所にたった一人、人間として降り立ったとき、我々も意識の持つ強烈な意味を感じるのではないでしょうか。

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