
かつて釣りに夢中になっていた。
夢中になったのは海でルアーを投げて釣る釣りである。単純に魚を捕るためには餌で釣るほうが遥かに良いのだが、私はルアーで釣りたかった。私は「ルアーという人工物」と「魚というナマの生命」がコンタクトするイメージにはまり込んでいた。両者が直接コンタクトし、繫がる(=釣れる)イメージに夢中になっていた。
餌で釣るとなると、そこに一つ余計な媒介物が入る感覚がある。餌で多いのは川釣りならミミズ、海釣りならイソメ、それ自体が生き物である。べつにそれが残酷だからということではない。そうではなくて、人間サイドと自然サイドがあるとすると、餌自体がすでに自然サイドのものであることが私には気に入らなかったのである。
もちろん、ルアーだってどこかの工場で誰かが作ったものだから、余計な媒介物とも言えなくもない。だからこそ、ルアーを手作りする人もいるし、フライフィッシングをする多くの人は自作の毛針を使う。私はそこまでは行かなかったけど。
夢中になっていた頃は、日曜日の昼過ぎに東京の自宅から伊豆半島の先端まで車を走らせて、一匹も釣れず、ルアーをいくつか無くして帰ってきたなんてことも何度かあった。自宅から往復約300キロ。伊豆の先端部には今でも高速道路が通っていないし、帰りは熱海から小田原にかけては必ず渋滞があり、釣りをする時間より運転時間のほうが遥かに長かった。ここまで無駄な行動は滅多にないと思う。
あの頃の私が切実に求めていたのは、魚を捕らえることや食べることではなかった。そうではなくて、自分の手に持っている竿がグングンと躍動する生命体とつながる感覚であった。しかもそのターゲットは深い水の中にいた方が良い。だから海の魚で、かつ海底付近に生息している魚を狙うことが多かった。
私がこの仕事を選んだのは、自分自身の心の中との繋がりが足りてないという感覚があったからなのだろう。そして、その感覚はこの仕事を始めてからもしばらく続いた。自分の心の中との繋がりが足りてないということは、私のところに来てくださる人々に対しても、「繋がったぞ」という感覚が(少なくとも私基準では)足りてなかったということでもある。申し訳ない限りである。
その後、釣り熱は徐々に冷めていった。釣りをする必要性を感じなくなっていった。それまで私の同僚達は私の釣りの話を笑顔で聞いてくれるので良い人たちだと思っていた。しかし、私が釣りをしなくなって写真や温泉の話をし始めるとつまらなそうな顔をするので、そこまで良い人たちというわけでもなく、本当に釣りに興味を持ってくれていたんだということがわかった。
話が逸れた。……いや実は逸れてないのかもしれない。
ともかく、私はいつの頃からか、何かと繋がったという感覚を得ることができるようになっている。釣り熱が冷めたのはそういうことなのだろう。強いて表現するならば、釣り竿の先、釣り糸の先が常に何かと繋がっているような感覚である。釣り上げなくとも良い。繋がっていればそれで良い。