
戦闘ロボットにおける欲望
随分と時代遅れなことを言うようであるが、1995年にTVアニメとして放映された「新世紀エヴァンゲリオン」は、これまでの戦闘ロボットアニメの隠された欲望にメスを入れたのだと思う。
1970年代前半、マジンガーZから始まる人型搭乗兵器としての戦闘ロボットは科学技術の結晶として描かれた。それは正義の味方であり、理性の象徴であり、本能や欲望から切り離された自我の延長線としての役割を任されたはずであった。そしてロボットたちは表向きはそうした役割を担い続けた。しかし、ロボットたちは、人型の存在として、その中に人間を受け入れることによって、純粋な機械ではなくなっていた。つまり、ロボットはパイロットの融合を受け入れる母体となっていた。
この頃のロボットアニメにおいては、特定のパイロットが一対一で運命的に一つのロボットに結びつけられており、ロボットが受けたダメージはそのままパイロットのダメージになるなど、両者は当然のように一体化していた。
兵器としてのリアルロボット
ロボットアニメに詳しい人は「ガンダムはそうじゃない」と言われるかもしれない。確かに、1979年から放映された「機動戦士ガンダム」はこれまでのロボットから一線を画すリアリティを重視した作品であったと言える。ガンダム以後、こうした作品が多く作り出された。のちにリアルロボットと呼ばれるようになる作品群である。
しかし、これらに至っても、ロボットは単なる兵器となることはなかった。兵器としてのリアリティを優先するのならば、移動速度・被弾面積の小ささ・装甲の厚さ・もしくは遠隔操作を優先したものになるはずだからである。人型で搭乗式というのは兵器としては極めて非合理的である。つまりこれはパイロットとの一体性を主眼に置いた表現形式なのである。
この一体性はすべての戦闘ロボットアニメにおいて例外なく通奏低音として存在し続けてきた、いわばこれまでの戦闘ロボットアニメ全体の無意識的なベースあたる要素であった。
この一体性を、パイロットである少年が強い大人の殻を見につけて成長することのメタファーだとする見方もある。おそらくそちらのほうがメジャーな視点であろうし、その視点も真理であろう。しかしエヴァは、より普遍的で内面的な視点のほうにアクセントを置いた。
一体性に焦点を当てることで噴出してきたもの
エヴァンゲリオンは「ロボットが生命体であり、パイロットとシンクロする」という設定によって、この一体性自体をあからさまに意識化して扱った。一体性には「シンクロ率」という指標が設けられ、それぞれのエヴァに専属パイロットが結びつけられた。このようにして、無意識の闇の中にあった「ロボットとパイロットの一体性」に光があたった途端、そこから様々なイメージが溢れ出た。エヴァの壮大な世界観はこの一点から噴出し、形作られていったのではないか。
「自我」は世界から自分を切り離すことで成立する。母から生まれて母から切り離される。しばらくすると両親の保護下からも切り離され自由に動き回るようになる。また本能からも切り離され、欲望や怒りや恐れに圧倒されることも少なくなっていく。こうした切り離しのプロセスは、個人の精神発達だけに見られるわけではない。人類全体の精神発達の歴史も同様の経過を辿ってきた。これは「神話」という形で表現されている。
神話とは人類の精神発達の歴史であり、創世神話とはその最初に語られるものである。旧約聖書の創世記(Genesis)においては「神が天と地を作った」と書かれている。また、日本書紀には「軽いものが浮いて天になり、重いものが沈んで地となる」と書かれている。この「世界」という認識がなかった頃、人間は野生動物同様に世界の一部として本能に突き動かされていた。そのため、創世神話における世界の生成は、人間が世界を認識できるようになったということであり、それはすなわち人間が世界から切り離されたということでもある。人間の文明はこの「切り離し」によって階段を一段一段登るようにして発展してきたと言える。
新しい神話としてのエヴァ
Neon Genesis――「新しい創世記」、つまり「新しい創世神話」――をサブタイトルに冠したエヴァンゲリオンは、しかし、人類の進化に逆行する欲望を真正面から描いた。冒頭で言った隠された欲望とは、融合への欲望であり、自立の放棄であり、帰胎内願望であり、世界との一体化である。エヴァにおいてパイロットとロボットの一体性を真正面から扱うということは、個人のレベルでは母子一体性と母子分離、および自我と本能の分離と融合を描くことにつながる。さらに、神話レベルでは世界の生成と消滅を描くことにつながる。
たとえば、エヴァのコアにはそれぞれのパイロットの母親の魂が埋め込まれており、窮地に陥ると母親の魂が覚醒し、エヴァの持つ本能のままに敵を抹殺する。この時、シンジ君が体験しているのは優しい母親との融合であり、それによって個体としてのシンジ君は溶けて消えてしまうこともある(第20話)。その一方で本能と融合したことによって外から見えるエヴァの行動は極めて野性的・暴力的であり、これが個体レベルにおける融合の二つの側面を表している。
また、神話レベルとしては生命の起源となる生命体が存在したこと。そしてストーリー中では人類を含めた全ての生命が滅亡の危機に瀕していること。この滅亡とは個体の消滅であり、これだけで融合と言える。しかし、さらにその滅亡のもう一つの形態として「人類補完計画」があり、これは個体の単なる死ではなく、「LCLの海」といった個体が存在しない全てが融合した状態になることにアクセントが置かれている。
このようにして、エヴァンゲリオンは分離と融合という壮大で普遍的なテーマを扱うこととなった。分離とは文明の推進力であるが、それに逆行する地球規模の融合への誘惑をストーリーの核に据えた。しかし、その融合が実現してしまったら未来はない。それは「死」と同じだからである。したがって、融合の誘惑を正面から扱いながらも、個人が生きていく道を指し示さなければならない。そのためTV版の6ヶ月という短い期間では、自己啓発セミナーばりの強引なエンディングに持っていかざるを得なかった。そして、いくつかの劇場版の発表の後、真の最終話と言えるシン・エヴァンゲリオン劇場版に至るまで25年という長い歳月を要したのである。
パイロットとロボットの一体性に焦点を当てるというのは、人類がある時点で世界を発見し、それによって世界から距離を取ったのと同じ動きである。つまり、一体性に焦点を当てることができるということは、その一体性から距離を取って客観視する主体を作り出しているのである。人類史の初期において創世神話が生まれたのと同様に、その一体性から距離を取って焦点を当てることで、エヴァの壮大なストーリーは形作られていった。その意味で、エヴァはその成り立ちからして、たしかに神話に近いのである。