
どこへ行っても「たいやきくん」
子供の頃、世の中がこの曲一色に染まった時期があった。
テレビ、店先、通学路、そして学校。どこへ行ってもこの曲が流れていた。 私はこの曲が嫌いだった。せっかく逃げ出したのに、最後は食べられてしまう。「なぜこんな暗く悲しい曲がどこに行っても流れているのか」。子供ながらに理不尽に思っていた。
「サラリーマンの悲哀」
「あれはサラリーマンの悲哀を歌っているのだ」と訳知り顔で言う人がいる。 確かに説得力のある解釈である。歌詞を細かく見れば、当てはまる部分が多い。
しかし、サラリーマンの悲哀だとしても、たいやきくんは悲惨すぎはしないだろうか。サラリーマンの悲哀を歌う他の多くの曲は、悲壮感の中にもある種の達観や、応援歌的な要素を含んでいるものだ。「たいやきくん」のように、一時の自由から最後は食べられて終わるという悲惨な歌詞は、少なくともメジャーな曲の中には見当たらない。
そもそも、大人の悲哀を歌ったというだけの曲なら、なぜ子供たちにあれほど聴かせ続ける必要があったのか。飲み屋や深夜番組で流していれば十分ではないか。
子供の「残虐性」
あるいは、子供たちもまたあの歌に惹きつけられていたのだという考えもあるかもしれない。 たとえば、歌詞の内容が子供特有の「残虐性」を刺激したなどの可能性である。
子供にとって「死ぬ」「殺す」は、「うんこ」「ちんちん」などと並ぶ魅力的な禁句だ。たとえば、童謡「お正月」のこんな替え歌を、私もかつて大声で歌っていた。
もういくつ寝ると、お正月
お正月には餅食って、喉に詰まって死んじゃった
早く来い来い救急車
年齢が少し上がると、「死んじゃったら救急車が来ても手遅れだ。来るのは霊柩車だろう」「霊柩車なら急がせる必要はないじゃないか」などという議論があったのも懐かしい。
しかし、これはあくまでブラックジョークとしての替え歌だ。誰が死んだのかもはっきりしない。つまり、常識やお行儀の良さを強制する大人への反発からくる、悪態レベルの「死」に過ぎない。もし、この替え歌が大人の手によって公の場で流されるようになれば、子供たちはドン引きして歌わなくなるだろう。
たいやきくんの残虐性
「たいやきくん」における「死」はそれとは意味合いが異なる。主人公は「僕」という一匹のたいやきであり、海へ逃げ込み、冒険をした結末としての「死」だ。
「僕」が釣り針にかかったシーンは、こう歌われる。
岩場の陰から食いつけば
それは小さな釣り針だった
どんなにどんなにもがいても
針が喉からとれないよ
「僕」は針にかかってもがき苦しみ、釣り上げられ、所詮は自分が単なるたいやきであることを悟る。そして食べられる瞬間までが克明に歌詞になっているのだ。
一人称で語られる物語に、聴き手は自分を重ね合わせただろう。これは悪態レベルの「死」ではない。物語の主人公の「死」であり、自分自身の「死」の体験ですらある。
もちろん、そんな歌が存在してもいいし、探せばもっと残酷な曲もあるだろう。しかし、この曲が「日本におけるシングル曲売上・ダントツの歴代1位」であるという事実。これには何か深い意味があるはずである。