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「およげ!たいやきくん」大ヒットに隠された日本文化の深層を考察する(超長文)

「主人公が食べられて死ぬ曲」。世界的に見ても、こんな結末の歌が歴代売上1位であり続けている例は他にないだろう。

「およげ!たいやきくん」の特殊性は、自由を求めた個体が結局は元の運命に連れ戻され、食べられて終わるという結末にある。

これは当時のフォークソングに見られる個人的な暗さとも違い、また「サラリーマンの悲哀」といった表面的な解釈だけで説明しきれるものでもない。

この曲には、アンサーソングとも言える「だんご3兄弟」や、「世界に一つだけの花」といった歴代の国民的ヒット曲と共通する、ある明確な構造が隠されている。

それは、日本人の心に深く根付く「ウロボロス(生と死のサイクル)」への帰依である。本記事では、この国民的ヒット曲を入り口として、日本文化の深層にある精神構造を考察してみたい。

目次

いかに特殊な曲か

「およげ!たいやきくん」は1975年に子供向け番組の「ひらけ!ポンキッキ」の中で流れた曲で、450万枚以上を売り上げた。2位以下と100万枚以上の差をつけ、ダントツの一位である。

順位曲名(発売年)売上枚数
1位およげ!たいやきくん(1975年)457.7万枚
2位女のみち(1972年)325.6万枚
3位世界に一つだけの花(2003年)312.8万枚
4位だんご3兄弟(1999年)291.8万枚
5位君がいるだけで(1992年)289.5万枚

この曲が流れた「ひらけ!ポンキッキ」は子供向け番組とも言えるが、親子で楽しめる内容を制作の方針にしている番組であり、この「およげ!たいやきくん」も、主に大人にウケたのではないかと言われている。

歌詞を見てみよう

ここで歌詞の内容を漫画風に見てみよう。

「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて」嫌になり、「僕」は、海へ逃げ込んだ。

始めて泳いだ海。とても気持ちが良いもんだ。

桃色サンゴも僕の泳ぎを眺めてる。

時々サメにいじめられるけど、そういう時は逃げる。

泳いでいたらお腹が空いてきてしまった。

エビだと思って食いついたら釣り針だった。

おじさんは僕を釣り上げてびっくりしてた。

おじさんは僕を美味そうに食べた。やっぱり僕は普通のたいやきだったんだ

海外における歴代シングル1位

ここで主な国におけるシングル売上歴代1位の曲を見てみよう。これを見ると「たいやきくん」がいかに特殊な「1位」であるかよく分かると思う。それぞれの国の「1位」のテーマは様々であるが、基本的に「ポジティブな感情」が軸にある。

しかし、日本だけが違う。そこにあるのは「逃げ場のない死」と「諦め」である。世界中のどこを探しても、「主人公が食べられて死ぬ曲」が売上の頂点に君臨している例は存在しない。

歴代No.1曲(国民的代表曲)テーマ・内容
アメリカホワイト・クリスマス【幸福・祈り】聖なる夜の温かさと、古き良き時代への憧憬。
イギリスキャンドル・イン・ザ・ウィンド【追悼・永遠】ダイアナ元妃への愛と、その魂は永遠であるという称賛。
フランスプチ・パパ・ノエル【夢・希望】「おもちゃを忘れないで」とサンタに祈る、子供たちの夢。
中国月亮代表我的心【純愛】「月を見れば私の想いがわかるはず」という永遠の愛の誓い。
ロシア百万本のバラ【献身・ロマン】報われない恋のために、全財産を捧げる画家の美学。
韓国江南スタイル【風刺・活力】富裕層への皮肉を込めた、自己主張。
日本およげ!たいやきくん【死・諦念】毎日焼かれるのが嫌で逃げ出したが、最後は人間に食べられて死ぬ。

サラリーマンの悲哀

これをサラリーマンの悲哀を表現していると読み解く人は多い。つまり自由を与えられず、ひたすら働らかされ、食い物にされるのが嫌で逃げ出したが、結局は釣りあげられて食べられてしまう。サラリーマンなんて所詮、そんな運命なんだと。

この説を後押しするのは、この曲のレコードを買ったのが、主に子供を持つ父親であると言われていることである。当時の『子ども調査研究所』の分析によると、ブームの火付け役は幼児とその若い父親であったと報告されている(Wikipedia「およげ!たいやきくん」)。また当時は消費税がなく、代わりに物品税があったが、子供向けのレコードはその課税対象になっていなかった。しかし「たいやきくん」は大人向けの曲だから課税するべきではないかという議論があった(国税庁公式サイト)という。

たいやきとは、文字通り型にはめることによって作られ、一匹一匹の個性は存在しない。個性を認められず、自由もなく、単調な仕事を与えられ、均質な集団に埋没させられるという、サラリーマンに対する悲観的な視点として読み解くのは一定の説得力を持つ。

しかし、この曲の残酷さについて言えば、「悲哀」などという言葉で言い尽くせるものではない。サラリーマンの悲哀を表現した曲は他にも存在するが、それはある種の応援歌であったり、そうでなければ達観を歌詞にしたものである。たいやきくんのような孤独と絶望を描いた曲は他に見当たらないし、さらにはこれが、子供向けという体裁で流されていたことも驚くべきことなのである。

どこが残酷か

たいやきが食べ物のままで食べられれば、全く残酷ではない。しかしこの曲の歌詞は、一匹のたいやきを「個別化」することで生命を吹き込み、そうした後に、またその生命を奪うのである。

「たいやき」というカテゴリー
(量産可能な食べ物)

海へ逃げ込んだ
唯一無二の「僕」
(個体化・個別化)

陸に釣り上げられる
たいやき」というカテゴリー
(量産可能な食べ物)

「個体」としての「僕」が生まれてしまうと、そこには「心」が生まれる。そして自由への憧憬や死への恐怖が生まれる。この曲は一匹のたいやきを個別化し、しかも、これを一人称の「僕」と呼ぶことで共感を呼び起こし、心の存在を強調しておきながら、それを殺してしまうのである。

一定以上の年齢の日本人にとって「たいやきくん」は非常に慣れ親しんだ曲である。だからこんなことを言うと「大げさな」と思われるかもしれない。しかし、こんな内容のストーリーは世界中を見渡しても例を見ないのである。


他の作品との比較

逃げ出した食べ物が食べられる物語(ジンジャーブレッドマン)

まず、この曲の元ネタと言われている「ジンジャーブレッドマン」というアメリカ民話のストーリーを見てみよう。たいやきくんが流された「ひらけ!ポンキッキ」は、アメリカの子供番組である「セサミストリート」をお手本にしている。そしてセサミストリートの初期から何度も題材にされているのが、以下の物語である。

昔々、おばあさんが焼いた人型の生姜クッキー「ジンジャーブレッドマン」が、オーブンから飛び出して逃げ出しました。彼は「誰にも僕を捕まえられない!」と挑発しながら、おじいさんや家畜の動物たちの追跡を振り切って走り続けます。村を出てしばらく行くと、そこには川が流れていました。ジンジャーブレッドマンは立ちどまりました。水に入るとジンジャーブレッドマンは崩れてしまいます。
そこにキツネが現れ、「向こう岸へ渡してあげる」とジンジャーブレッドマンを自分の体の上に乗せます。そしてそこから自分の鼻の頭へと誘導しました。その瞬間、ジンジャーブレッドマンは一口で食べられてしまいました。

食べ物が逃げ出して、最後は食べられてしまうという物語の大枠は同じである。「ひらけ!ポンキッキ」と「セサミストリート」の関係からしても「たいやきくん」の作詞家がこれにヒントを得ている可能性は高いように思う。

しかし、雰囲気は全く違う。この物語は、脚の速さを鼻にかけた生意気なジンジャーブレッドマンが、最後は狐との知恵比べに負けるというストーリーである。これは「分をわきまえない愚か者は、自然の摂理(狐)によってリセットされる」ということであり、そこには秩序の回復がある。また、この物語は一人称で語られることはなく、ジンジャーブレッドマンを「生意気な食べ物」という位置づけで読める。

一方「たいやきくん」は「苦痛に耐えられなくて逃げ出した弱者」である。「僕」という一人称で語られるところも、聴く人の共感を強要する。にもかかわらず、ジンジャーブレッドマンのような逃げ場や教訓もない。お腹がペコペコになって初めて口にした食べ物が釣り針だったのである。ここには「どうせ逃げられない」という悲しい諦めしかない。

日本のフォークソングとの比較

1975年といえば、日本ではフォークソング全盛期(末期)である。この頃のフォークソングは暗い曲が多い。この頃の曲からいくつかピックアップして「たいやきくん」と比較してみよう。

◯「都会では自殺する若者が増えている」から始まる井上陽水の「傘がない」は「行かなくちゃ、君の街に行かなくちゃ」をリフレインすることで、「君」への思いを歌っている。

◯同じく暗い曲とされているクレープの「精霊流し」も、「去年のあなたの思い出が」と歌い始めるように、もう亡くなった「あなた」への思慕が歌われている。

◯フォークソングではないが、「昭和枯れすすき」も暗い曲とは言われる。「貧しさに負けた~」から始まるこの曲だが、これは夫婦で歌うという設定のデュエット曲であり、最後は「二人は~枯れすすき~」と熱唱して終わる。これはむしろ熱いラブソングとも言える。

これらを見ると暗い歌には必ず「愛する対象」がある。またこれら3曲に限らず、暗い曲とされているものはほぼ例外なく愛の対象がある。

しかしたいやきくんに愛する対象はない。

グリム童話

グリム童話の中の残酷なものを見ても、「たいやきくん」のような「死が不可避」なものはない。そこには「こうすれば生き延びられたのに」という教訓がある。

猫とねずみのおつきあい」は、猫とねずみが友だちになり、二人で秘密の場所に食べ物を隠す。しかし猫はこっそり全部食べてしまい、ねずみが怒ると、猫はねずみもパクっと食べて、おしまい、という話である。
本来、猫とねずみは捕食者と被捕食者であり、「綺麗事に騙されて『お友達』などと思ってると、食べられるだけだよ」という教訓を読み取ることができる。

トルーデさん」というお話は、親の言うことを聞かない女の子が、好奇心で魔女トルーデの家に行き、魔法で木の棒に変えられ、あっさりかまどで燃やされて終わるものである。たしかに残酷ではある。しかし「親の言うことを聞かず、好奇心だけで暴走すると簡単に死んでしまうことがあるよ」という教訓が読める。

「およげ!たいやきくん」は「食べられてしまうから逃げ出したけど、結局捕まって食べられてしまう」。ここにあるのは教訓ではなく「諦め」である。

他の作品との比較してみて

ここまで様々な作品と比較することで、たいやきくんの歌詞における「残酷さ」「孤独さ」そして「どうしようもなさ」が他では見られない特徴であるということが明らかになった。

ではなぜ、こんな暗い曲がここまで受け入れられたのだろう。

この考察に入る前に、あと一つだけ挙げなければいけない作品がある。その作品は「たいやきくん」を理解するための重要な視点をもたらしてくれる。

「だんご3兄弟」というアンサーソング

歴代売上ランキング第4位である「だんご3兄弟」は、「たいやきくん」と同じく大人をも巻き込む現象であった。

当時の購入者層を見ると、3割弱が子どもや孫のいない層で占められている。残る7割強は子どもや孫を意識して買った層だが、購買者である大人が惹かれる歌でなければ、ここまでの売上には達しない。1999年3月から4週連続でカラオケチャートの1位を記録したという事実が、この曲が大人たちによっても消費されていたことを明確に示している。

だんご3兄弟歌詞(Uta-Net)

この「だんご3兄弟」の歌詞をじっくり見ていくと、「たいやきくん」と共通した基盤の上に立っていることがわかる。

食べ物としての輪廻転生

「およげ!たいやきくん」において、彼らは「毎日毎日」鉄板の上で焼かれる。この反復は、彼らが「個体」としての一回きりの生を生きているのではなく、代替可能な「食べ物」として消費される存在であることを示している。もし彼らが唯一無二の個体であれば、一度焼かれ、食べられた時点で終わるはずである。

この構造は「だんご3兄弟」においても同様である。彼らもまた、春には花見で、秋には月見で食される。「こんど生まれてくる時」を願う彼らは、死をもって終わりとはせず、何度でも商品として再生されるサイクルの中にいる。生まれては食べられ、また生まれては食べられる。終わりのない消費のループである。

しかし、両者のスタンスは異なる。たいやきくんが、この焼かれては食べられる「死のサイクル」に絶望し、そこからの脱走を試みたのに対し、だんご3兄弟はそのサイクルに笑顔で安住しているのである。同じ「死のサイクル」に取り込まれていながら、一方はそれを拒絶し、もう一方はそれを幸福として受け入れるのである。

「あんこ」と「焦げ目」に対する態度の違い

この「死のサイクル」のへのスタンスの違いは「あんこ」と「焦げ目」へのスタンスとも繋がる。


おなかの「あんこ」が重いけど
海は広いぜ心がはずむ。

このように、たいやきくんにとっての「あんこ」は自由に海を泳ぎ回る時の邪魔な足かせとして位置づけられている。

一方、だんご3兄弟は……


今度生まれてくる時も、願いはそろって同じ串
できれば今度は「こしあん」の、たくさんついたあん団子。

来世は『あんだんご』に生まれ変わりたい」と言って、自分から「あんこ」を求めている。

また、たいやきくんの「焦げ目」は、最後、釣り人に食べられようとする時に以下のように歌われる。


やっぱり僕はたいやきさ。少し「焦げ」あるたいやきさ。
おじさんツバを飲み込んで、僕を美味そうに食べたのさ。

たいやきくんにとっては、死を目前にした時に、初めて食べ物としての逃れられない運命の証として受け入れたのが「焦げ目」である。

しかしだんごたちは……


ある日、兄弟喧嘩、焦げ目のことで喧嘩。
焦げ目」のことで喧嘩、でも、すぐに仲直り。

だんご3兄弟は「焦げ目」のことで喧嘩をするが、「すぐに仲直り」する。焦げ目はたまに集団を乱す日常的なノイズでしかない。

その「アンサー」とは何か

「食べ物」「焼かれること」「死のサイクル」「あんこ」そして「焦げ目」。これらの共通点は、単なる偶然とは考えにくい。『だんご3兄弟』の作詞家は「たいやきくん」を強く意識し、公言はせずとも、この曲をアンサーソングとして世に送り出したはずである

そのアンサーの中身とは何か。それは、「運命から逃げようとせず、与えられた環境で機嫌よく食べられよう」という提案である。

たいやきくんは、焼かれる運命から逃げ出すことで自由を求めた。しかし結果は、釣り人に釣られて食べられてしまった。それに対してだんごたちは、串に刺さったまま身動きが取れないことを嘆いたりはしない。むしろ、その不自由さを「仲良しの証」として肯定し、次はどんな味の団子になりたいかと、食べられる未来を楽しみに待っている。

自由を求めて一人であがくより、決められた運命の中で、みんなと一緒に笑って過ごすほうが幸せじゃないか?

「およげ!たいやきくん」と「だんご3兄弟」。 日本の音楽史に残るこの2大ヒット曲は、売上記録や不況下のヒットとしてよく並べられる。しかし、極めて不思議なことに、2025年12月26日現在、「だんご3兄弟」が「およげ!たいやきくん」のアンサーソングであることは、誰からも指摘されていないのである。それどころか、その『歌詞の中身』が対立していることに触れた比較記事・批評自体が見当たらない。

時代背景

国鉄のストライキというきっかけ

この曲のヒットの要因として、必ずと言っていいほど語られるのが、1975年11月26日から8日間続いた旧国鉄のストライキ(Wikipedia「スト権スト」)である。 この期間、国鉄(現JR)の全線が完全にストップしたため、多くのサラリーマン(若い父親)が会社に行けず自宅待機となった。その時、彼らが暇つぶしに子供と一緒に『ひらけ!ポンキッキ』を見て、この曲に出会った、という「定説」がある。

「スト権ストで足止めを食らったパパたちが、仕方なくわが子と一緒にチャンネルをひねったところ『ウーン』と、たいやきくんに共感した」 毎日新聞(1976年1月11日)

ところが、大勢は異なる。国鉄が止まったからと言って、会社を休んだサラリーマンなどほとんどいなかったのだ。 どの社員も「這ってでも出勤しなければ」と、会社の近くのサウナに泊まり込み、あるいは何時間も歩いて会社に向かった。朝日新聞の当時の報道によれば、大手商社や銀行の出勤率は98%以上、霞が関の官公庁に至ってはほぼ100%が出勤したという。 これほどの社会的圧力があったのならば、その他の一般企業でも似たりよったりの出勤率であったことは想像に難くない。

(↓38分42秒から出勤者によるラッシュ)

この映像が示す通り、ストライキの最中に、父親がのんきに子供とテレビを見られるような空気ではなかった。つまり、「自宅待機中に『ひらけ!ポンキッキ(月~土 朝8時放送)』を見て共感した」というエピソードは、あったとしても稀なケースに過ぎない。

むしろ、このストライキによって父親たちの心に刻まれたのは、「電車が止まっても、毎日会社には行かねばならない」という、逃れることのできない強制力であった。そして、平日の朝にテレビを観ることの出来なかったそうした父親たちが初めてこの曲と出会ったのは、子どもたちの生歌からであった可能性が最も高い。

「まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんの……いやになっちゃうよ

子どもたちは大人の前でこの曲を最後まで歌うことはなく、おそらくこの部分だけが繰り返し大人の耳に入っただろう。そして、この「いやになっちゃうよ」は、国鉄ストライキに直面したサラリーマン達にとって激しく共感できるものであったに違いない。

さらに言えば、この逃げ場のない構造はストライキによってたまたま露呈しただけであって、それまでも存在していたのである。高度成長期が終わった1975年。そこにはもう夢はなく、お互いを縛り合う暗黙の規律だけが残っていたのである。つまり、ストライキがなくとも、この曲がウケるお膳立ては整っていた

当時はインターネットもなく、レコード発売直後は、この曲の歌詞を「いやになっちゃうよ」までしか知らないまま買った者も多かっただろう。しかし、年明けにラジオや有線でフルコーラスが流れ始め、その結末が「海へ逃げても、最後は釣り上げられて食べられる」という救いのないものだと知れてからも、レコードの売上はオリコン1位を3ヶ月間キープし続けた。つまり、この曲の「悲しい諦め」という結末は、彼らの期待を裏切るものではなかったということになる。

「笑ゥせぇるすまん」との共通項

「笑ゥせぇるすまん」の描く社会

『およげ!たいやきくん』が、欲望を実現をしても局は『焼かれて食べられる』という元の日常へ強制送還される物語であるのに対し、アニメ「笑ゥせぇるすまん」で繰り返し描かれるのは、「欲望を解放した者は日常そのものを没収されるぞ」という執拗な脅迫である。

一見すると、この両者は正反対の結末に見えるかもしれない。 「たいやきくん」は元の鉄板(日常)に連れ戻されるが、『笑ゥせぇるすまん』のターゲットたちは日常から永久追放されてしまうからだ。

しかし、『システム(社会)の視点』に立ったとき、両者は全く同じことを描いていることがわかる。 それは、『個人の欲望(個体化)』は許されないという構造である。

システムにとって、規格から外れた個体を『元に戻す(たいやき)』か『ゴミとして捨てる(せぇるすまん』かは、単なる処理方法の違いでしかない。 重要なのは、どちらの物語も『個人の意志によって運命を変えることはできない』という絶望を突きつけている点である。

このアニメは、1989年〜1992年のバブル期真っ只中にTBSで放送された「ギミア・ぶれいく」というバラエティ番組の1コーナーとして放送された。「ギミア・ぶれいく」は毎週火曜日・21時から22時54分までの2時間の大人向けのバラエティ番組であった。「笑ゥせぇるすまん」はその中の大人向けのアニメとして、この番組内の22時くらいに一話完結で放送された。どれも10分間のショートストーリーである。

エピソードはいくつかの例外を除いてほぼパターン化しており、意表をついた展開というものはあまりない。多くのエピソードでおおよその方向性は序盤から見えている。

『途中下車』(半出押太)
望み: 30年間会社からまっすぐ帰宅した人生で、一度だけ寄り道をしてみたい。
結果:帰るべき家そのものが消滅。そのことで錯乱状態になったため、タクシーの運賃を踏み倒そうとする「無賃乗車犯」とラベリング。

『頼もしい顔』(頼母雄介)
望み: 一度でいいから誰かに甘えたい。
結果: 家庭内での立場が消滅。ゴミ屋敷で中年女性に抱かれ、バブバブと授乳される「幼児退行」した廃人とラベリング。

『グルメ志願』(久留米星雄)
望み: 結婚資金を貯める我慢の生活の中で、夢だった最高の美食を味わいたい。
結果: 婚約者と結婚が消滅。生ゴミを恍惚と食らう「狂人」とラベリング。

これらは「一度でも日常の外に出たら、お前の居場所は消える」という、極めてヒステリックな粛清の論理である。 特に「途中下車」の半出押太が、たった一回の浮気心(未遂)で家ごと消されるというのは、「不寛容の極み」と言うしかない。

どのターゲットも最初は特定のコミュニティに属する人物として描かれる。そして自身の欲望を持っている。ここで喪黒福造によってその欲望のストッパーを外されると、ほとんどの人は歯止めが効かなくなり、そのコミュニティにおける居場所を失う

エンディングで依頼者(ターゲット)は、他者視点で「社会的な逸脱者」として描かれる。半出押太が「無賃乗車の犯罪者」として、頼母雄介が「幼児退行した廃人」として、久留米星雄が「生ゴミを食す狂人」として、他者の視点によって描写されている。規範から外れた者は狂人や犯罪者と分類され、このことが居場所の喪失を意味する

新たな世界を見ているはずの本人の経験はここでは完全に否定されている。それは『頼もしい顔』の主人公(頼母)が観音様に出会った経験を、「イイ年して赤ちゃん返りをしておばちゃんに抱かれている」として描写されることでもよく分かる。本来、観音様に出会うという体験は、宗教的な文脈であれば「悟り」や「回心」として称賛されるような人生の一大エピソードだ。昔の有名なお坊さんであれば、それは奇跡の瞬間として記録されているであろう。

「実際は観音様じゃなくゴミ屋敷に住むおばちゃんなんだから」と言われるかも知れない。しかしそれは、もとより彼を社会からの逸脱者として描こうとしているからそういう表現になるのであって、個人を肯定する視点で描けばそのようにはならない。

「笑ゥせぇるすまん」において、ほとんどの依頼者たちが一度欲望の蓋を開けるとブレーキが効かなくなり、一気に破滅まで突き進んでしまうのも、この作品の視点そのものが、彼らを社会の規格品として見ているからである。彼らは規格品として「良品」か「不良品」かの二択でしか描かれないのだ。「ほどほどに楽しむ」「徐々に減速する」といったブレーキ操作は、個人の視点をもたないと描くことが出来ない

個人の欲望を「生きる力」としてリスペクトする視点があれば、そこには葛藤や成長のドラマが生まれる。しかし、リスペクトがないと、欲望は単なる「規格品の不良」とされる。そして今度は「見せしめ」という社会の養分に変換され、再び飲み込まれていく。

「たいやきくん」と「笑ゥせぇるすまん」

「たいやきくん」も「逃げ出したい」という欲望を抱いて、海に逃げ込んだ。しかし、その後は再び「人間に食べられる」という日常に強制送還されてしまう。その意味で、欲望を叶えようとすると日常に戻ることができなくなる「笑ゥせぇるすまん」とは正反対である。しかし、個体からの「私が変わりたい」という変化への欲望をシステムが圧殺しているという点で、どちらも同じである。

つまり、ここでのメッセージはこういうことである。
「個人の欲望で運命は変えられない。お前はお前に割り当てられた『型』の中で一生を終えるのが幸福なのだ」

そしてこれは「だんご3兄弟」のメッセージとも被る。それをもう一度確認しよう。
運命から逃げようとせず、与えられた環境で機嫌よく食べられよう

たいやきくんは逃げ出し、だんご3兄弟は逃げ出さない。それをもって、『だんご3兄弟はたいやきくんへのアンサーソングである』とするのが本記事での見解である。しかし、視野をさらに広くとると、両者のメッセージはほとんど同じだとも言える。すでに述べた通り、たいやきくんの逃亡は結果的に「運命からは逃れられない」ということを強調することになっているのだから。

歌詞の矛盾点が本質である

ストライキに見る社会の圧政

これらのことは、すでに述べた旧国鉄のストライキで起きたことともつながる。 国鉄が動かず、ホテルやサウナに泊まる者。寒い季節に段ボールを敷いて会社に泊まり込む者。私鉄の駅まで10キロ近く歩いた後、殺人的な満員電車に詰め込まれて通勤した者。あるいは、会社までの往復40キロを自転車で通った者。

「そこまでして会社に行きたくない」と思った者は多かったに違いない。 しかし、「休みたい」というのは個人の欲望だ。システム内部の「規格品」である彼らに、そうした個人の事情や欲望は許されない。『笑ゥせぇるすまん』で描かれたように、人々は、一度でも個人の欲望を優先して会社を休んでしまったら、「不良品」と見なされ、二度と元の場所には戻れなくなのではないかと感じたのだろう。

日本社会がこのようなものであったことを踏まえ、より一層深く『およげ!たいやきくん』の歌詞内容に踏み込んでみる。

二つのおかしな点

『およげ!たいやきくん』の歌詞には、構造的な「おかしな点」が二つある。 もちろん、「たいやきが泳ぐはずがない」「腹が減るはずがない」といった点は問題ではない。そこは物語を成立させるためのファンタジーとして受け入れるべき前提だ。 問題なのは、そのファンタジーの内部ですら整合性が取れていない、以下の二点である。

1つ目はすでに述べたように、「たいやきくんが毎日毎日焼かれる」という点だ。 物理的に存在する個体としての「たいやき」は、一度焼かれて食べられたらそこで終わりだ。毎日焼かれることはない。これはシステムが「個体としての『僕』を認めない」という姿勢を表現している。これはここまでの議論の通りだ。

2つ目は、「海水に浸かっていたたいやきが、美味いはずがない」という点である。 ラストシーンで、釣り人のおじさんは「うまそうに」僕を食べたことになっている。しかし、数日間も海水に浸かったお菓子が、美味いはずがないのだ。 たいやきくんが海を泳ぐまではファンタジーでいい。しかし、最後に釣り上げられ、現実につれ戻され、本来の「食品」として食べられる以上、そこは現実の法則に従うべきであろう。ならば、その味は「しょっぱい生ゴミ」のはずである。

たいやきくんが逃げ込んだ「海」とは、本来であれば「焼かれる→食べられる」というシステムの外側に広がる世界だったはずだ。 彼はそこで海水に浸かり、桃色サンゴを意識して泳ぎ、サメに追われる恐怖を味わった。その経験は、確実に彼の身体に「ふやける」「塩辛くなる」という物理的な変化を与えているはずである。

しかし、釣り人はまるで焼き立てであるかのように彼を「うまそう」に食べた。 これが意味することは「外部(海)での個人的な経験が、完全になかったことにされた」である。

たいやきくん個人にとって、初めての海はとてつもない体験だったはずだ。 広い世界、サンゴの美しさ、サメの恐怖、体に染み込んだ海水の感触、泳ぐときのあんこの重さ。これらは彼の人生を揺るがす、一生に一度の大冒険だった。 しかし、釣り上げられて「単なるたいやき」に戻された瞬間、その体験は「無」に帰された。もともと彼が所属していた社会にとって、個人の冒険など何の意味も価値もないからだ。

たいやきくんの海のシーンは夢だったと言っても良い。これは夢オチと同じ構造なのだ。

当時の大人たちはそうした世界観を受け入れていた。「自分独自の経験」「独立した存在としての自分」は、所属する社会の前では夢か幻みたいなものだということだ『およげ!たいやきくん』の歌詞にある矛盾点は、そんな大人たちの諦めを映し出していたのである

個体化のマボロシ

西洋のおとぎ話における個体


「たいやきくん」の歌詞の矛盾点を考えてきたことによって、海という外部要因の無視というさらなる特徴が浮かび上がってきた。

実のところ、これはすでに挙げたグリム童話やジンジャーブレッドマンとは正反対の特徴である。もう一度思い出していただきたい。これらに共通するのは、個体が「内部」から「外部」へ出た途端、圧倒的な力に敗北して死ぬという構造だ。

ジンジャーブレッドマンは「老夫婦の家(内部)」から「森(外部)」へ行き、一人では川を渡ることが出来ず、狐に食べられる。
『猫とねずみのおつきあい』では、「友達関係」という人為的な契約(内部)が、その外側に厳然と存在する「捕食関係」という自然の摂理(外部)によって破られ、ねずみは食べられる。
『トルーデさん』では、「親子関係(家庭)」から飛び出した少女が、「魔女(超越的な暴力)」という外部に触れ、あっさりと殺される。

これらの物語で描かれているのは、「個体の死」である。 彼らは、無謀ではあるが、「一人の個」として外の世界に挑戦し、そして外の力に敗れて死んだのだ。これらの物語において、「外の世界」はよりいっそう過酷なものとして、「死」という最も激しい衝撃を主人公に与えているのだ。

これらの物語には以下のような世界区分がある。

村・家(文明・内部)安全なお約束が通じる場所。
森・外(自然・外部内部とは異なる過酷なルールが有り、弱い個体は力で圧倒される場所

これはドラクエの世界観と同じである。村の中は平和だが、外に出れば危険なモンスターがいる。そのため武器を装備しないとあっという間に負けてしまう。ここで紹介したおとぎ話は、どれも主人公が弱い個体であったために外部に出た途端に倒されてしまう。

しかし、個体が強ければ、主人公は村を出て恐ろしい外部に行き、強い敵を倒し、それによってレベルアップし、ドラゴン(魔王)を倒し、最終的に財宝やお姫様をゲットする。多くの英雄伝説はそういうものであり、同じ世界観であっても個体の強さによって展開が異なるのだ。

また、たいやきくんとの関連で興味深いのは、クッキーであるジンジャーブレッドマンが、川岸でピタリと足を止めるという点である。

ジンジャーブレッドマンにおいて「お菓子が走る」というファンタジーのルールは、「水に濡れれば崩れる」という自然の摂理(外部)の前では通用しない。これをジンジャーブレッドマンは知っていた( それゆえにキツネを利用しようとして食べられるわけだが)。

重要なのはこの物語が「ファンタジーの上位に、抗えない外部の法則が存在する」ことを前提に進んでいる点だ。そう考えると、もしたいやきくんが『外部の法則を重視するおとぎ話』であったなら、海に飛び込んだ途端、彼はふやけて溶けて消えていたということになる。

たいやきくんにおける個体

「外部」とは個体を個体たらしめるために不可欠な要素である。外部に脱出してこそ「個体」として独立することが出来る。しかし、その「外部」は「泳げ!たいやきくん」においてはマボロシである。

たいやきくんは 「毎日毎日焼かれて食べられる」という巨大なサイクルから外部に脱出した。 そして海の中を泳ぎ回ることも出来た。しかし、彼はそこで死ぬことはない。サメも彼をいじめるだけで食べようとはしないのだ。

そして、彼は釣り上げられ、再び「食べられるモノ」として、内側に引き戻される。 その時外部の影響は完全に抹消される。

これは「個体の死」ではない。「個体になろうとしたが、再び全体の一部として回収された」という、「個体化のマボロシ」である。一度は海という外部に行ったが、その事実は無かったことにされ、他のたいやきたちと全く同じように「うまそうに」食べられる。

「だんご3兄弟」と「笑ゥせぇるすまん」における個体化

だんごたちに関しては、最初から「個体化」には興味はない。彼らは最初から最後まで「作られる→食べられる」というサイクルとしてのみ存在している。彼らは「花見団子」「月見団子」「あん団子」という様々な形態に生まれ変わっては食べられ、そしてそれを幸せとしている。

これは「個体化の拒否」である。この曲においては、主人公に「身動きが取れない串に刺さった団子」が選ばれた時点で、たいやきくんのような「個体による冒険」は選択肢にないのだ。

一方、「笑ゥせぇるすまん」において、依頼者は必ずコミュニティの一員として描かれている。すでに述べたように、この作品では、依頼者は個人的な欲望を持つとブレーキが効かなくなり、その結果、所属していたコミュニティでの居場所を失う。

ここで描かれているのは、コミュニティ(全体)を主体とした物語であり、個人は切り捨て可能な規格品に過ぎない。そのため依頼者が個人的な欲望を抱くと(=個体化しようとすると)、社会から狂人や犯罪者といった異物のレッテルを貼られて排除されるということが繰り返される。これは「個体の排除」と言えよう。

「世界に一つだけの花」はアンチテーゼか

ここで、歴代シングル売り上げランキングトップ5にあらためて注目したい。

順位曲名(発売年)売上枚数
1位およげ!たいやきくん(1975年)457.7万枚
2位女のみち(1972年)325.6万枚
3位世界に一つだけの花(2003年)312.8万枚
4位だんご3兄弟(1999年)291.8万枚
5位君がいるだけで(1992年)289.5万枚

1位の「たいやきくん」と4位の「だんご3兄弟」。この2曲は「食べ物」が主人公であり、「作られては食べられる」という「死のサイクル」の中にいること、そしてその運命によって「個」が否定されている点で共通していることは既に述べた。

ここにきて取り上げるのは、シングル売り上げ歴代3位の「世界に一つだけの花」である。 そのタイトルからして「個」を大切にしようというメッセージが読み取れる。「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」。

つまり、それぞれの「個人」や「個体」は「世界に一つだけ」だという主張だ。 これは一見、「たいやき」や「だんご」のような没個性的な世界観に対するアンチテーゼであるかのようだ。

世界に一つだけの花(Uta-Net)

しかし、歌詞を吟味すると別の様相が浮かび上がってくる。


花屋の店先に並んだ色んな花を見ていた。
人それぞれ好みはあるけど、どれもみんな綺麗だね。

人間の個性を花に例えるというのは美しい表現だ。しかし、ここで歌われている花々は、地面に根を張った植物ではなく、一貫して商品としての切り花である。そこに気づけば、この曲の「個性礼賛」の深層にはこれまで議論してきた「死のサイクル」がしっかりと横たわっていることがわかる。

「たいやき」「だんご」と同様、「切り花」もまた消費されていく存在である。商品であるがゆえに「人それぞれ好みはあるけど、どれもみんな綺麗だね」と歌われるように、ここで歌われる「個性」は全面的に他者(買い手)の評価に依存している。また、切り花は花瓶に入れても1週間程度しかもたない。切り取られ、美しさを消費され、枯れて死ぬ、という短い消費のサイクルの中にいるのだ。

この曲の作詞家は、人間の個性のメタファーとして、たくましい野の花ではなく、こうした切り花の儚い美しさを選んだ。 個性とは儚いものであり、儚いものだからこそ礼賛しなければいけない。そうしたメッセージは多くの日本人の感性とマッチした。だからこそ、歴代3位というビッグヒットとなったのだ。

そしてそれは、「およげ!たいやきくん」において、たいやきくん個人の海での体験が、釣り上げられた瞬間にマボロシのように消えてしまう構造とも繋がっている。

「個」も「個性」も儚いものであり、あっけなく消えてしまう。 こうした観点を、「たいやきくん」も「だんご3兄弟」も「世界に一つだけの花」も共有している。

そもそも、歴代売上トップ5のうち3曲までもが、「消費されて消えていく商品(たいやき・だんご・切り花)の擬人化」をモチーフにしているという事実は、日本人の人間観をこれ以上ないほど露骨に反映している

「あわれ」の美学

「もののあわれ」を概念として定義したのは江戸時代の国学者・本居宣長である。ここで、彼が「あはれの文学」の最高峰と位置付けた「源氏物語」を取り上げてみる。

物語は、主人公・光源氏の母「桐壺」から始まる。彼女は帝から深く愛されたが、後ろ盾を持たず、他の女御からの激しい嫉妬により心身を病んでしまう。それを哀れんだ帝からさらに愛されるも、心労が重なった桐壺は、源氏が3歳の時にこの世を去る。

桐壺はその美しさゆえに愛され、妬まれ、抵抗することなく受け身のまま衰弱し、儚く死んでいく。光源氏は、この亡き母の面影を生涯追い続け、多くの女性と関係を持つことになる。

薄命なのは桐壺だけではない。源氏物語に登場する主要なヒロインの多くが若くして死ぬか、出家して世を去る道を選ぶ。物語の中で最後まで生き残った女性たちは端役であり、美しいヒロインたちは皆、老いる前に消えていく。「あはれの美」には常に死が付きまとう。彼女たちはまるで「切り花」のように儚い

我々日本人は古来、死にゆく者、滅びゆく物の美を愛でてきた。『源氏物語』の女性たち、『平家物語』の敗者たち、そして『能』の主人公である亡霊たち。日本人が桜を好むのも、満開の時だけでなく、散り際の潔さに美を見出すからである。

この感性は、現代の花火大会にも表れている。 世界最大級といわれるニューヨークの花火は、6万発をわずか25分で撃ち尽くす。一方、日本の花火大会は、2万発を90分かけて上げる。 なぜか。

我々が愛でているのは光そのものだけではなく、「打ち上げられ、開き、散って暗闇に消えていくプロセス全体」だからだ。一発の花火が闇に溶けていく「死に際」を見届け、その後に訪れる静寂(無)までを味わうために、日本の花火はあのように長く、隙間だらけでなければならない。

「生」だけでなく、「死」をも鑑賞する。それは死の先にあるのが完全な虚無ではなく、大きな全体のサイクルへ還ることだと感じているからだ。この認識こそが「無常観」であり、終わりと始まりがつながった円環構造(ウロボロス)として、我々の死生観の根底に流れているのである。

ウロボロスとたいやきくん

生と死のサイクル

「生まれては死ぬ」「光っては消える」「咲いては散る」。こうしたことは地球上に生命が誕生してから延々と繰り返されてきたサイクルである。「たいやきくん」もこうした「作られる→食べられる」という運命のサイクルに抗えなかった。

こうした生と死を含む大きな全体のサイクル。これを深層心理学においては「ウロボロス」と呼び、自らの尾を食らう蛇の姿で表現する。このモチーフは古代エジプト、ギリシャ、中国、北欧、インドなど、世界中の文明に見られる普遍的なものである。

エーリッヒ・ノイマンはこれを「意識が生まれる前の世界」と定義した。「人間の意識」はこのウロボロスから生まれてきた。もしくは、「人間の意識」が自らが生まれてきた場所を振り返って見た時、そこにある世界がこのウロボロスである。

その世界に「個人」はない。誰も彼も全てが溶け合った世界である。それはエヴァンゲリオンでいうところの「LCLの海」である。

そこでは「産むこと」と「殺すこと」、「食べること」と「食べられること」が区別されず、一つの円の中で自己完結している。そこには「外部」が存在しない。それは全てであり、同時に無でもあり、生と死が未分化であるがゆえに、「死と再生」をも意味する場所である

西洋の選択(ドラクエモデル)

西洋人は、個体を確立するために、このウロボロスの円環から脱出し、それを「討伐対象」とした。これが西洋におけるドラゴンの正体である。

したがって、西洋の英雄神話は「ドラクエモデル」となる。英雄は故郷を旅立ち、外部へと出て、ドラゴン(混沌)を討伐し、現世の「王」となる。これは、明確な「個人」を確立するための戦いのプロセスである

マルドゥク神対ティアマト
マルドゥク神 vs ティアマト(龍)
バビロニア神話の創世叙事詩。若き英雄神マルドゥクが、混沌の母なる竜ティアマトに挑む。嵐と雷を操り、怪物の口に風を送り込んで射抜いた。ティアマトの体は引き裂かれ、天と地が創造された。秩序が混沌を制した瞬間である。
アポロン vs ピュトン(デルフォイの蛇)
ギリシア神話の光の神アポロンが、聖地デルフォイを占拠していた大蛇ピュトンを射殺する場面。混沌に対する理性の勝利を象徴し、アポロンがデルフォイの神託所を確立する起源。
ヘラクレス vs ヒドラ
ヘラクレス vs ヒドラ(多頭の蛇)
英雄ヘラクレスの十二の難業の一つ。レルネの沼に棲む多頭の水蛇ヒドラは、首を切り落としても二本再生する不死身の怪物。ヘラクレスは甥の助けを借り、切り口を松明で焼いて再生を封じ、最後に不死の首を岩の下に埋めて勝利した。

日本の選択(スサノヲと浦島太郎)

一方、日本には西洋的な意味での「ドラゴン退治」の話がほとんどない

唯一それに近いのが、日本神話におけるスサノヲとヤマタノオロチの物語だが、スサノヲは西洋の英雄のように真正面から戦ってはいない。彼は強い酒で大蛇を「酔わせて」、眠り込んだところを解体したのである。

スサノヲ vs ヤマタノオロチ
高天原を追放され出雲に降り立ったスサノヲが、八塩折(やしおり)の酒で酔わせる智略を用いて八岐大蛇を倒した。尾から現れた草薙剣はアマテラスに贈られ、三種の神器として後の王権と武威の象徴となる。

それ以外の伝説や昔話に至っては、対処する姿勢すら見られない。同じく日本神話のホムチワケの物語では、結婚して妻が蛇だと知るやいなや逃げ帰ってくるし、「浦島太郎」にいたっては〈竜〉宮城に行きながら、竜を見かけることさえなく、ただもてなされて帰ってきただけである。

日本の昔話は西洋の「ドラクエモデル(勝利と獲得)」とは根本的に異なるものが多い。「浦島太郎」を始め「鶴の恩返し」「竹取物語」「うぐいすの里」など、最終的に「すべてを失った無の状態」に至るものであったり、あるいは主人公が最初から「おじいさん・おばあさん」という死(無)に近い人々であったりする。

これは現代の「たいやきくん」のストーリーでも同じである。彼は鉄板から逃げ出してはみたものの、結局は最初の運命(食べられること)に戻っていく

すべてを失い、「無」に直面した場面で日本人が呟く言葉、それが「あはれ」である。こうした日本の昔話における「無の状態に至る」エンディングについて、河合隼雄は次のように述べている。

ウロボロス状態への退行とか、決めつけてみてもあまり面白くない。(中略)何も起こらなかった、ということを積極的に評価してみてはどうであろうか。何も起こらなかったとは、つまり、英語の表現 Nothing has happened をそのまま借りて、「無」が生じたのだと言いかえられないだろうか。

河合隼雄「昔話と日本人の心」岩波書店 1982年 p29

河合は、物語の結末で「結局、何も起こらなかった」という事態を、「『無』という事象が生じたのだ」と積極的に評価した。しかし「無」とはウロボロスのことである。河合は、日本の昔話の結末がウロボロスの状態に至ることを踏まえ、それを「無が生じた」と再定義した。そのようにして、日本の昔話で起きているのは単なる逆戻り(退行)ではなく、ウロボロスを肯定的に「表現」しているのだと言っているのである。

西洋人のようにウロボロスを否定し「討伐」して切り離すのではなく、つかず離れずの距離で「共存」することを選んだ。これが日本人である。そして、それを「昔話という形で表現し、味わっている」というのが河合の考えである。

味わっているのは昔話だけではない。花火や、和歌、あるいは「たいやきくん」のような子供向けの体裁を取った流行歌として、日本人はウロボロスを愛でている。「もののあはれ」とはその愛で方である。「あはれ」とは万物がウロボロスの円環(無)から生まれ、またそこへ還っていくその『一瞬の通り道』に立ち会った時の、共鳴音なのである

なぜ結末に安らぎがあるのか

「たいやきくん」が浦島太郎のような「結局何も残らなかった物語」と違うのは、たいやきくん自身が最後に食べられてしまうところである。ここでは主人公までが飲み込まれて消えてしまうのだ。

そして、たいやきくんがウロボロス的なのは、「焼かれる→食べられる」という死のサイクルを扱っているという理由だけではない。厳密な意味での「ウロボロス」が「およげ!たいやきくん」を聴くという行為自体に忠実に再現されるからでもある。

ウロボロスは自分自身を食べる一匹の蛇で表される。食べる側と食べられる側が同じなのである。これは「たいやきくん」にも言える。たいやきくん自身は「食べられる側」である。しかし、「およげ!たいやきくん」を聴いている人間たちは、哀れなたいやきくんに自分自身を重ね合わせながら彼を食べる

哀れな「たいやきくん」と自分を重ね合わせつつ、その「たいやきくん」を食べる

つまり、我々はこの歌を通じて「自分自身を食べ、定義そのままのウロボロスを演じている」のだ。食べるのも自分、食べられるのも自分。それは外部のない自己完結した姿である。人々はたいやきくんの個体に感情移入すると同時に、彼を食べてしまう「全体」にも同一化する。その「全体」はこうつぶやく——「かわいくて、おいしくて、あわれなたいやきくん」。たいやきくんは「個体」が消える無念さと、それと同時に「全体」に溶け込んでいく安堵を感じながら我々の一部になっていく。

これは同じくウロボロス的円環構造を歌う「だんご三兄弟」にもあてはまる。人々はだんご達に感情移入し、自分たち自身も生まれては死ぬというサイクルの中にいることに思いを馳せ、同時にその死のサイクルそのものとなってだんごたちを食べる。だんごたちは食べられることを至福としているため、喜んで我々の中に入り、一体化していく。これも食べる側と食べられる側が同じである。

食べ物を題材にしたこのような歌によって、人類の精神史において最も原初的なイメージ「ウロボロス」を作り出すことが可能なのだ。しかもそれらの歌は途方もないビッグヒットとなった。このことはつまり、このウロボロスが我々の心の中にまぎれもなく息づいている証なのである。

「もののあはれ」が日本的感性の中核にあるように、こうした曲がヒットする土壌も、日本文化に特有のものであろう。

あはれと欲望

我々は「たいやきくん」の結末に、日本的な「あはれの美学」を見出す。しかし、この美学に高い価値を置くことは、同時に「個体としての欲望」を忌避することにつながる。なぜなら、個人の欲望を認めると、ウロボロス的・全体的な調和が乱されてしまうからである。

「笑ゥせぇるすまん」の冷酷な粛清は、この「あはれ」の裏返しである。個体が「全体」から逸脱し、自分だけの欲望を貫こうとすれば、「全体」はそれを「醜い不良品」として処理する。「あはれの美」とは、源氏物語の桐壺のように、苦しい境遇にあっても運命に抵抗せず、静かに消えていくあり方を理想とする。逆に、「個」としての欲望を露骨に晒す者は、醜い存在として排除されるのだ。

「たいやきくん」の歌詞も、このルールに忠実である。たい焼き屋から逃げ出す際も、「死にたくない」という生存本能をむき出しにしてはならない。


毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ。
ある朝、僕は店のおじさんと、喧嘩して、海に逃げ込んだのさ。

逃亡の理由は「食べられたくない」という生への執着ではなく、「毎日焼かれるのが嫌だ」という日常への不満にすり替えられている。さらに、海へ逃げ込んだきっかけも「おじさんと喧嘩して」という、なんだか唐突なものとして描かれている。

また終盤、釣り針に食いつく理由も、以下のようにクドいくらい周到に説明される。


一日泳げばハラペコさ。目玉もぐるぐる回っちゃう。
たまにはエビでも食わなけりゃ、塩水ばかりじゃふやけてしまう。
(「岩場の陰から食いつけば、それは小さな釣り針だった」に続く)

たいやきくんが生き物であるならば、捕食はごく当たり前の行動である。しかし、ここでは彼が釣り針に食いつくのにいかに「やむを得ない事情」があったかを説明する。これにはなんと8小節もの時間が費やされている。

あはれ」であるためには、個体としての欲望を正当化する言い訳が必要であり、それをむき出しにしてはならないのだ。


「およげ!たいやきくん」はもうずいぶん昔の曲である。「だんご3兄弟」、「世界に一つだけの花」も古い歌だ。しかし、文化の深層にある精神構造は、数十年程度で変わるものではない。

こうしたあり方はあまりにも根強く、我々の根幹に存在している。だからその是非を問うことなど容易にはできない。

ただ一つ言えることは、このようなビッグヒット曲という形で、我々の心の在り方の特徴が見事に表出しているという事実だ。そこには、良し悪しを超えた、そして実に特徴的な、日本人の精神構造が映し出されている。

(終わり)

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