「嘘つき!」
<三番目に寝た女の子>=<仏文科の女の子>の自殺の理由を考える時に、最初に思いつくのがこのシーンでしょう。
「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか…..もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「…子供は何人欲しい?」
「3人」
「男?女?」
「女が2人に男が1人」彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」
と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。
「風の歌を聴け」村上春樹 講談社文庫 P128~129
彼女はおそらく「僕」が言ったことをすべて嘘だと言っています。そして読者がここまでの「僕」から受ける印象は、感情に乏しく、達観していて、何を考えているかわからない。そんな「僕」の返答がここでだけ妙にストレートなので違和感があります。だから彼女が「嘘つき!」と言うのもわかる気がするのではないでしょうか。
田中実氏は「僕」が14歳のときにハートフィールドの影響を受け、すべてを物差しで測り始めた結果、優しいだけで中身が<からっぽ>の人間になってしまった、と言います。そして、「嘘つき!」で終わる会話について次のように言います。
女は真剣に問い、男は「嘘」を答える。女は愛しているかと問い、結婚したいのかと尋ね、子供は幾人ほしいのかと迫る。<優しい>僕は相手に応える<主体>を持っていないままセックスと煙草の本数を等価に重ねた。愛の<主体>を欠落させた<優しい>男の実態が、実は空洞<からっぼ>だと知ったとき、女は胎児を宿したまま首をくくって死ぬ。<愛>に生きる女にとって、男の内実が空洞<からっぽ>と知らされたとすれば、そのことのショックは想像に余りある。
田中実 「数値のなかのアイデンティティ―『風の歌を聴け』」 1990 日本の文学 第7集(下線は引用者)
ただ、(田中氏を含め)スルーしている人が多いのですが、先ほどのやりとりは10月のものです。つまり8ヶ月間の交際期間の2ヶ月目のものなのです。優しい恋人を<からっぽ>だと見抜くにはあまりにも短い期間ですし、そのあと5~6ヶ月交際は続くのです。
彼女の自殺を「僕」との関係のせいかどうかを判断するためには、「僕」側の要因だけで考えるのは片手落ちです。「嘘つき!」で終わる会話だけではなく、彼女について語られたそれ以外の場所も吟味する必要があるはずです。
二人の関係をもう一度見直して、彼女がなぜ自殺したのかを考察していきましょう。
「あなたのレーゾン・デートゥル」
僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。
☆
僕は以前、人間の存在理由をテーマにした短かい小説を書こうとしたことがある。(中略)おかげで奇妙な性癖にとりつかれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。
(中略)当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のことながら、僕の吸った煙草の本数や上った階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味など持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりばっちになった。☆
そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p93(下線は引用者)
「ペニスがあなたの存在理由だ」はかなり大胆な(場合によっては攻撃的な)物言いです。なぜ、彼女は恋人にそんなことを言ったのでしょう。
「僕」が絶倫だったってことじゃない?
うーん、そういうのもあるのかもしれないですが、後で出てくる部分も考えると、存在理由は大事なキーワードになってくるんです。
恋人のレーゾン・デートゥルに言及する人は、それ以上に「自分の存在理由」を真剣に考えてきた人でしょう。そして、自分の存在理由を真剣に考える人は、自分がこの世に存在する理由が見つからない人です。ペニスを「あなたのレーゾン・デートゥル」などと言ったら、「僕」の人格を否定しているわけですが、彼女自身の人格の存在理由が久しく見つからない状態であったと考えると、全く悪気のないセリフだった可能性があります。
そのあと☆を挟んで、「僕」が奇妙な性癖に取り憑かれたことが書かれます。すべての物事を数値に置き換えるという性癖です。この箇所について井上義夫氏は言います。
「僕の吸った煙草の本数」等々に「誰ひとりとして興味など持」たないことが「僕」の「存在理由」を矢はせるのではなく、それ自体は個体として存在するものと各々一度限りの行為を同質のものと仮定して数値化することに、既に「存在理由」喪失の原因があるからである。
井上義夫 「村上春樹と日本の「記憶」1999 p21
<講義>にしても<セックス>にしても<喫煙>にしてもそれぞれ一回一回が別物として存在したものですし、「僕」のペニスもリアルに存在しているものです。数値化はそれらの存在性を剥奪し概念化するものです。それによってものごとは軽くなります。この軽さはこの小説全体を支配しています。主人公である「僕」はそういうふうに個々の違いを剥ぎ取って理解する人なのです(詳しくは以下の記事)。
田中氏が「僕」のことを<からっぽ>といったのはそういうことなのでしょう。
でも「僕」が数値化し続けた期間はそのまま彼女との交際期間です。だから「僕」がそういう不毛なことをしたのは、他ならぬ彼女にそれを伝えるためだったのです。数値化が存在理由の喪失の原因になるのは井上氏の言う通りです。でも「僕」は「僕」なりに真剣に彼女と何かを共有しようとした。「僕」は彼女との関係を存在理由にしようとした。だから「僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失ない、ひとりばっちになった」というふうに、彼女が死に、存在理由を見失うと同時にひとりぼっちになるのです。
彼女の写真
彼女は決して美人ではなかった。しかし「美人ではなかった」という言い方はフェアではないだろう。「彼女は彼女にとってふさわしいだけの美人ではなかった」というのが正確な表現だと思う。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P97~98
僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に目付けがメモしてあり、それは1963年8月となっている。
彼女は何処かの避暑地らしい海岸の防潮堤に座り、少し居心地悪そうに微笑んでいる。髪はジーン・セバーグ風に短かく刈り込み(どちらかというとその髪型は僕にアウシュヴィツを連想させたのだが)、赤いギンガムの裾の長いワンピースを着ている。彼女は幾らか不器用そうに見え、そして美しかった。それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった。
(中略)彼女は14歳で、それが彼女の21年の人生の中で一番美しい瞬間だった。そしてそれは突然に消え去ってしまった、としか僕には思えない。どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない。
「僕」は彼女の内面の美しさについて語ります。その内面の美しさは14歳の時の写真の美しさに繋がります。とても美しい文章です。こんなふうに彼女のことを思い出せる「僕」が彼女のことを愛していなかったはずがないと思いますが、今それは置いておきます。ここで「僕」は彼女の14歳の時の美しさが失われたことを悲しんでいます。紛らわしいですが、ここで「僕」が悲しんでいるのは21歳の彼女が自殺したことにではないのです。そうではなくて、14歳の彼女の美しさが「突然消え去った」ことに、なのです。
うーん、確かにじっくり読むとそうなんだけど、これ、分かりづらすぎない?
確かに分かりづらいです。そして彼女の自殺についてはその1ページ後に別個に触れられてるんです。でも14歳の彼女の美しさが消え去ったことよりも若干突き放した言い方なのです。
何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P99
14歳の彼女の美しさが「突然消え去った」ことと、彼女の自殺とは7年のタイムラグがあります。おそらく「僕」は彼女の14歳の時の美しさを失わせた何かと自殺の原因は同じものだと考えています。
それさすがに深読みしすぎ
いいえ、14歳というのはこの小説において人生が大きく変わってしまう転機の年齢なのです。「僕」は14歳の時に物差しで事物との間を測り始め「実にいろいろなものを放り出してきた(p10)」。<小指のない女の子>は14歳の時にお父さんが死んで家庭がバラバラになっていった(p78)、<難病の女の子>は14歳の時にベッドから全く動けない病にかかって今も入院(p142)しています。
彼女の14歳の変化について語る時の僕には非常に感情が込もっています。「どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない」とまで言うのです。それは成長によって外見の可愛らしさが失われた程度のことではないのです。もっと悪い決定的な変化があったのです。そしてそれはおそらく外見にも現れてしまうような何かなのです。
その流れで、☆を挟んで以下のように続くのです。そこに触れられているものが、その悪い変化と関係していると私は思います。
天の啓示
彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ、と言った。それは朝の4時前で、僕たちは裸でベッドの中にいた。僕は天の啓示とはどんなものなのかと訊ねてみた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P98~99
「わかるわけないでしょ。」と彼女は言ったが、少し後でこうつけ加えた。「でもそれは天使の羽根みたいに空から降りてくるの」
僕は天使の羽根が大学の中庭に降りてくる光景を想像してみたが、遠くから見るとそれはまるでティッシュ・ペーパーのように見えた。
奇妙なピロートークです。彼女は「天の啓示」について真剣に語るのです。肉体的には「僕」と密着した状況で、彼女の心が向かっているのは「僕」ではなく<天>なのです。また、『天の啓示を受けるために大学に入った』などというのも常識を逸脱している。どう逸脱しているかは後で言いますが、この状況で真剣にそんなことを言われたらドン引きする男性は多いに違いない、と私は思います。
おいらはドン引かないよ
うん、偉いです。私としてはこの彼女のセリフの異常さに気づく人があまりに居なさすぎるので、ちょっと強調したくてそう言ってみました。
そして「僕」もドン引かず、「天の啓示とはどんなものか」と訊ねます。しかし返ってきた返答は「わかるわけないでしょ」です。これは言い換えれば「それがわからないことくらいわかんないの?」です。自分がヘンなことを言ったことに気づいていない独りよがりな反応です。そしてその流れで「でも天使の羽根みたいに空から降りてくるの」というセリフが来ると、「僕」をおいてきぼりにして自分の中のイメージに陶酔している様子が想像されます。彼女の心は遠くにあるのです。それでも「僕」は(不完全ながらも)それを思い浮かべて彼女と繋がろうとするのです。
存在理由と、孤独
そして、「天の啓示」とは、神から与えられる使命です。それは絶対的な存在理由を伴います。他人からの承認をいっさい必要としない存在理由です。そのために大学に入ったというのですから、彼女は大学入学前からすでに自分の存在理由を見失っていたのです。14歳を過ぎた時に彼女の身に起きたこと、つまり「どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない」と「僕」が言う「そんなこと」とはおそらくそれと関係しているのです。
「大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ」、私はこのセリフにとてつもない孤独を感じます。彼女が人間に全く期待していないことがわかるからです。それは彼女が(人ではなく)神に自分の存在理由を求めているということだけではありません。神とのつながりを求めるなら、たとえば洗礼を受けて教会に通うといった選択肢もあるはずです。そこにはすでに宗教という文化があって、神を信仰する人々のコミュニティがあります。「天の啓示」などという激レアなことが起きなくとも、宗教の中で何か助けが見つかるかもしれない。
しかし、普通の大学にそういうものはありません。場違いです。誰も「天の啓示」なんか求めて大学には来ていない。だけど彼女は周りを見回したりはしない。なぜなら他人に全く期待していないからです。彼女はたった一人、世俗の喧騒の中で「天の啓示」を待つのです。これは背水の陣です。彼女には「天の啓示」か、さもなくば絶望しかない。彼女はそこまで追い詰められていたのだと私は思います。
せつない
そういう人を傍から見るととても切ない感じがしますよね。でも人間にまったく期待していない状態というのは、彼女自身はそれを切ないとも寂しいとも思っていないということになります。こういう人は実際どんな気持ちなんでしょう?そこをさらに詰めて考えるというのもアリですが、このわからなさをわからないままに表現しようとしているのがこの作品だとも言えます。
21歳の彼女の顔
さて、ここで再び写真についての「僕」の語りを見返します。あまり長く引用するのも良くないと思って前回は中略したところがありました。それが太字部分です。今回はそこに着目してください。
僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に目付けがメモしてあり、それは1963年8月となっている。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P97~98(太字・下線は引用者)
彼女は何処かの避暑地らしい海岸の防潮堤に座り、少し居心地悪そうに微笑んでいる。髪はジーン・セバーグ風に短かく刈り込み(どちらかというとその髪型は僕にアウシュヴィツを連想させたのだが)、赤いギンガムの裾の長いワンピースを着ている。彼女は幾らか不器用そうに見え、そして美しかった。それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しきだった。
軽くあわされた唇と、繊細な触角のように小さく上を向いた鼻、自分でカットしたらしい前髪は無造作に広い額に落ちかかり、そこからかすかに盛り上がった頬にかけて微かなニキビの痕跡が残っている。
彼女は14歳で、それが彼女の21年の人生の中で一番美しい瞬間だった。そしてそれは突然に消え去ってしまった、としか僕には思えない。どういった理由で、そしてどういった目的でそんなことが起こり得るのか、僕にはわからない。誰にもわからない。
太字部の前までは14歳の時の写真の描写です。ここで「髪はジーン・セバーグ風に短く刈り込み」とあり、さらに「アウシュヴィッツを想像させた」とも言います。「ジーン・セバーグ風の髪型」とは前髪が殆どないオデコ丸出しの短いヘアスタイル(セシルカット)のことであって、遠目に見れば坊主頭に近い。だから「アウシュヴィッツを連想」したのでしょう。ところが、太字部分には「自分でカットしたらしい前髪は無造作に広い額に落ちかかり」とあります。これは先ほどの描写と明らかに矛盾します。そして「僕」が持っている彼女の写真は14歳の時のその写真1枚だけなので、他の写真のことを言っているわけではない。つまり、14歳の彼女の写真について語っている途中に21歳の彼女の顔がフラッシュバックしたということになるのです。このことは前後の段落が過去形なのに、ここだけ現在形になっていることからもうかがえます。これは作者が忍び込ませた当時の彼女の素顔なのです。
そして、この記事のテーマに沿うなら着目すべきなのは「自分でカットしたらしい前髪」です。もちろん前髪を時々自分でカットする女性は多いでしょう。しかし「自分でカットしたらしい」と思わせてしまう前髪は大失敗です。繰り返しになりますが、彼女は14歳ではありません。21歳の女子大学生なのです。
これによって再び同じ結論が導き出されます。彼女は人間に期待していないのです。人間に期待していないということは見た目も気にしないのです。それが21歳の彼女の姿だったのです。
もういちど「嘘つき!」
「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか…..もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「…子供は何人欲しい?」
「3人」
「男?女?」
「女が2人に男が1人」彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。
「嘘つき!」
と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。
「風の歌を聴け」村上春樹 講談社文庫 P128~129
再びここに戻ってきました。
「僕」はこれまで見てきた内容からすると、人間界から離れて行ってしまいそうな彼女を引き留めようとしています。そして彼女を理解しようとしていて、彼女との関係を自分自身の存在理由にしようとしている。それを「愛」と定義していいかわかりませんが、少なくとも彼女のことを真剣に考えていた。「愛してる?」と訊かれた時の「もちろん」という返答は、だから、「僕」なりに全く嘘偽りのないものだったと言えます。
しかし、彼女は自分の存在理由を人間から得られるとは思っていなかった。だから髪型も気にしないのです。自分は人間から愛される存在ではないと確信していたのです。「嘘つき!」と言ったのはそういうことです。最初の方でも言いましたが、この会話は「僕」と彼女が付き合い始めて2ヶ月後のものです。2ヶ月間で、優しい恋人が優しいままでいるのに、「実は愛していない」とか「中身がからっぽ」だなどとは見抜けません。つまり、この「嘘つき!」は彼女の頑なさの表現なのです。この時、「僕」の愛は信じてもらえなかったということなのです。
そして、この場面は「僕」が珍しくほとんど嘘をつかなかった時に「嘘つき!」と言われたことによって、わかりあえなさが強調されているのです(これについては以下の記事で)
彼女の自殺の理由(まとめ)
ここまでお話してきたように、彼女の自殺の原因は「僕」が愛してないからでもないし、妊娠したからでもないと考えられます。この小説で描かれているのは、恋人の自殺が主人公との関係だけで説明がついたりするようなシンプルな現実ではないのです。
以下は「風の歌を聴け」について作者が語った言葉です。
人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人が理解しあうことなんて不可能です。それは絶対的な真実です。僕らはみんなスプートニク衛星に乗って、地球のまわりをぐるぐるまわって、そのうちにどこかに消えていくライカ犬みたいなものです。
村上春樹 少年カフカ 新潮社2003.6. reply to 650
彼女が「僕」の本質を見抜いて自殺したのなら、彼女は「僕」の本質を理解できたということになります。それができるということは「人と人が理解し合うこと」が可能だということになります。つまり「スプートニク衛星の中のライカ犬」という作者のイメージとはずいぶん違うものになります。
彼女の自殺の理由はわからないというのが正しいのです。しかしそれでもなにか言えるとしたら、以下のようになるでしょうか。
彼女は「僕」と出会う前に自分自身の存在理由を見失っていた。それは生きている意味がわからないということであり、生きていたくないということでもある。そしておそらくは14歳を過ぎた頃からそういう状態になってしまっていた。なぜ存在理由を見失ったのか、その頃の彼女に何が起きたのか、そういうことはわからない。それでも彼女は大学入学という転機に期待した。しかしすでに人間を信用できなくなっており、彼女の期待は現実離れした「天の啓示」に向けられていた。そしてそれは、おそらく、起こらなかった。
「僕」と彼女はどちらもこの世界にしっかり根を張って存在できない人だった。どちらも孤独な人だった。二人は孤独な者どうし何か通じ合うものがあったのかも知れないし、なかったのも知れない。ただ「僕」の方は彼女と繋がることができると思い、彼女との関係を存在理由にしようとした。
しかし、彼女にとっての「僕」は存在理由にはならなかった。