「風の歌を聴け」考察⑥・鼠はなぜ「嘘だと言ってくれないか」と言ったか

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舞い上がる会話

「僕」と鼠の会話はわけのわからないまま終わることが多いのですが、小説の後半、初めて二人の意見がはっきりと対立するシーンがあります。鼠が「嘘だと言ってくれないか」と言うシーンです。しかし、鼠がそう言うから対立しているということがわかるものの、何がどのように対立しているのかとてもわかりにくいのです。

このシーンはまず、ある女の子のことを鼠が相談したがってると耳にすることから端を発します。こんな具体的な話題はこれまでになかったことです。ようやくストーリーがわかりやすくなってきた、と期待した読者もいるかも知れません。

「女の子はどうしたんだ?」
僕は思い切ってそう訊ねてみた。
鼠は手の甲で口についた泡を拭い、考え込むように天井を眺めた。
「はっきり言ってね、そのことについちゃあんたには何も言わないつもりだったんだ。馬鹿馬鹿しいことだからね。」
「でも一度は相談しようとしただろう?」
「そうだね。しかし一晩考えて止めた。世の中にはどうしようもないこともあるんだってね。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p116

ここまでは理解できます。確かに「世の中にはどうしようもないこと」があります。鼠にとってはその女の子のことがそれだということですね。

それに対して「僕」が放った言葉がくせ者です。

「例えば?」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p116

「どうしょうもないこと」とはその女の子のことなのです。なのに「僕」は「どうしようもないこととは、その女の子のこと以外に、例えば何?」と問うのです。

さあ、ここでも言葉は風をはらみ、宙に舞い上がり始めました。話題は極めて具体的な個人の話だったにもかかわらず、「僕」はまたそれを一般論に持っていこうとするのです。

鼠はそれに応えます。

「例えば虫歯さ。ある日突然痛み出す。誰が慰めてくれたって痛みが止まるわけじゃない。そうするとね、自分自身に対してひどく腹が立ち始める。そしてその次に自分に対して腹を立ててない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。わかるかい?」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p116

鼠はその話題に乗りつつも対抗しているのです。「虫歯は痛いもの」という一般論はありますが、「虫歯は痛いもんだよ」と言われたからといって痛みが和らぐわけではない。「痛み」とは他人と共有できない個人的な体験だからです。その個人的な痛みが自分に対する個人的な怒りに発展し、そこからさらに、自分以外の人々にもその怒りが向けられる。この順序が鼠の人間観なのです。

つまり、私達はみな自分の中に痛みや怒りや悲しみを抱えていたり、あるいは抱えていなかったりする。私達にとっての世界は、そのような外からは見えない条件によって大きく変わるということです。鼠はあくまでも「個人」の内面を通してしか世界は見えないと言っているのです。

それに対して「僕」は以下のように反論します。

「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。(中略)みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p117

「僕」はこれまでも一般論をよく口にしてきましたが、どれも軽いリアクションといった程度のものでした。しかし、ここで「僕」は初めて熱弁を振るうのです。「僕」の信念は、自分という個人を離れて神のような視点で「条件はみんな同じ」とするものなのです。これは鼠の見ている世界と全く違うことが明らかです。

「金持ちなんか・みんな・糞くらえさ」の理由

この作品のメインストーリーは、この鼠の「金持ちなんか・みんな・糞くらえさ」のセリフで幕が開けます。なぜ金持ちが嫌いか、その理由についていくつか可能性を考えることはできますが、どれも決定的なものとは言えません。ただ言えるのは、鼠自身の家が金持ちであることから、それは自己嫌悪に近いものであろうということです。

「時々ね、どうしても我慢できなくなることがあるんだ。自分が金持ちだってことにね。逃げだしたくなるんだよ。わかるかい?」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p112

この会話は「嘘だと言ってくれないか」の数時間前のものです。金持ちであることを嫌がる理由は貧乏を嫌がる理由よりも分かりづらい。つまり、その理由は外からは見えない鼠自身の内面的なものだということです。

虫歯の例で言ったように、鼠の人間観とはそうした外から見えない内面的な条件によって大きく左右されるというものです。それに対する「僕」の信念は、神の視点で「条件はみんな同じ」であるわけです。「僕」は人の内面に関わろうとせず、すべてを一括してしまう。これによって二人の人間観の間にある深い溝が浮かび上がるのです。

この深い溝を鼠は認めたくない。だからこのように言うのです。

「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。
嘘だと言ってくれないか?
鼠は真剣にそう言った。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p117(太字はページ作成者)

「反」一般論

以上でこの記事のタイトル、〈なぜ鼠は「嘘だと言ってくれないか」と言ったのか〉の答えはすでに出ました。しかし、このモチーフは作品全体を貫いているものなのです。ですので、どのようにそれが作品を貫いているかについて更に考察を続けてみます。そのために、まずは一般論と何かということをあらためて考えます。

検索してみると

ある特定の事柄を対象とするのではなくて、全体に通じるものとしての論

精選版 日本国語大辞典 

「みんな同じ」はもちろん一般論ですし、「みんな違う」も一般論なのです。つまり、全体を多様なものとして言及したとしても、一括して表現すればそれは一般論なのです。

鼠はこれを避けるために「虫歯の痛み」という極めて個人的な例えを選んだのです。そしてさらに、痛みによって自分に腹が立ち、他人にも腹が立つという、すべての人に当てはまるわけではない偏屈な性質を加えたのです。

鼠の作った小説も個人の違いがテーマになっています。鼠の小説は船が沈没して主人公が海に投げ出された直後から始まりますが、これは「僕」が『みんな同じ飛行機に乗り合わせたみたいなもの』と熱弁するのと対称的です。「僕」の人間観はみんな同じ乗り物に乗っている状態(みんな同じ)、鼠の人間観はその乗り物が失われた状態(みんな違う)なのです

以下は鼠の小説で、船が沈没して鼠と「女」が海に浮かんでいるシーンからです。

「そのうちに夜が明けてきた。<これからどうするの?>って女が俺に訊ねる。<私は島がありそうな方に泳いでみるわ>って女は言うんだ。でも島は無いかもしれない。それよりここに浮かんでビールでも飲んでれば、きっと飛行機が救助に来てくれるさ、って俺は言う。でもね、女は一人で泳いでいっちまうんだ」

村上春樹 「風の歌を聴け」講談社文庫 p25

そして「女」は必死に泳いで島にたどり着き、鼠はその場に留まって救助されます。二人は命の危機に直面した時に全く違う道を選んだ。結果的に二人とも助かって、数年後、バーで再会する。

「それでまた二人でビールを飲むんだろ?」
「悲しくないか?」

村上春樹 「風の歌を聴け」講談社文庫 p25

「僕」は「また二人でビールを飲むんだろ?」と言い、鼠は「悲しくないか?」と言います。この鼠の「悲しくないか?」は「僕」のセリフへの反応というより、自分のストーリーへの感想なのです。「悲しい」のは再会しても鼠と「女」の生きている世界が全く違うからなのです。

「僕」が茶化しつつ「それでまた二人でビールを飲むんだろ?」と「同じ」であることに着目している一方で、鼠が意識しているのは「違う」ということなのです。この「僕」と鼠のすれ違いによって、すでに「僕」と鼠の間にも溝があることがわかるのです。ですから「嘘だと言ってくれないか」の対決シーンの予兆は、この頃からあったのです。「女の子のこと」はきっかけに過ぎなかったのです。

一般論の敗北

「みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p117

先程も引用したこの部分は村上春樹の名言の一つに挙げられていたり、この作品で作者が一番言いたかったことだと考える人もいるようです。しかし、これは「僕」という一人の偏った人間の言葉です。鼠も否定的に受け止めていますし、この後、「小指のない女の子」と「難病の女の子」と「ディスクジョッキー」によって結果的に否定されています。

ただ、「僕」のような考えを否定することがこの作品のテーマかというとそれも違うと思います。「僕」の中にも外からは見えない個人的な事情があるのです。何度も述べていますが、この作品の味わいは登場人物達がわかり合えないことによって映し出される人と人との距離にあるのです。

「小指のない女の子」の場合

「一人でじっとしてるとね、いろんな人が私に話しかけてくるのが聞こえるの。……知っている人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p134

すでに別の記事で取り上げた部分です。これは幻聴という、その人にしか聞こえない声です。つまりこれは、鼠が例えに挙げた「虫歯」と同じで、他からは見えない非常に個人的な体験なのです。また、精神的な病から来る症状で、多くの人は一度も幻聴を体験することはありません。これは一般論に馴染まない特殊な体験なのです。

「怖いのよ」
「何が?」
「何もかもよ。あなたは怖くないの?」
「怖くなんかないさ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p137~138

ここで描かれているのも「僕」と「小指のない女の子」が体験を共有できないということです。「僕」は彼女の「怖さ」ががわからないし、「怖くなんかないさ」と言ったところでそれは所詮「僕」個人の体験でしかない。ここのシーンは鼠の人間観を立証しているとも言えるのです。ここではさらに「僕」の一般論が通用しない場面が続きますが、詳しくは以下の記事を御覧ください。

「難病の女の子」の場合

「小指のない女の子」は精神的な病を持っていると言えますが、この「難病の女の子」は重い体の病を持っています。

 私は17歳で、この三年間本も読めず、テレビを見ることもできず、散歩もできず、……それどころかベッドに起き上がることも、寝返りを打つことさえできずに過ごしてきました。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p142

「難病の女の子」はディスクジョッキーが読み上げる手紙の送り主として登場します。ここまで3年間入院しており、寝返りをうつことさえできない。回復の見込みは3%程度だと書かれます。

時々、もし駄目だったらと思うととても怖い。叫び出したくなるくらい怖いんです。一生こんな風に石みたいにベッドに横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこともできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで年老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思うと我慢できないほど悲しいのです。夜中の3時頃に目が覚めると、時々自分の背骨が少しずつ溶けていく音が聞こえるような気がします。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p142

「もし駄目だったら」というのは「もし治らなかったら」ということです。本当は治らない可能性のほうが遥かに高いけど、希望は失っていない。だからこそ怖いのです。

彼女にとって「強い振り」をするのはどれだけ大変なことでしょう。彼女に「みんな同じさ」が当てはまらないことは言うまでもありません。また、「人間は生まれつき不公平に作られてる(p27)」という言葉も、彼女のような境遇の人にとって何の支えにもならないでしょう。一般論では到底カバーできない領域です。

ディスクジョッキーの場合

「難病の女の子」からの手紙を読み終えたディスクジョッキーは港に向かいます。そしてそこから振り返って山の方を眺めます。そうして見えるたくさんの明かりの中の一つにこの手紙の送り主がいることに思いを馳せた後……

あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久し振りだった。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p144

(この後に「僕は・君たちが・好きだ」というセリフが続きますが、ここの部分はこの小説にとって特に大切な部分なので、またあらためて独立した記事にしたいと思っています)

遠くから全体を眺めているという意味で、このディスクジョッキーの視点は「僕」の一般論と似ています。しかし、全体を一括してはいませんから一般論とは違うのです。「難病の女の子」のような存在を他と一緒にくくることは人間には不可能です。だから彼は「実に色んな人がそれぞれに生きてたんだ」とありのままをそのまま受け入れようとする。彼はその街に住む様々な境遇にある人の一人一人に思いを馳せることができた気がしたのです。だから涙が出てくるのです。これは『「僕」の一般論』へのアンチテーゼとも言うべきものです。

まとめます

人は自分を通してしか世界を理解できない。なのに一括して「みんな同じさ」「強い振りができる人間がいるだけ」と言い切れる「僕」は非常に偏っています。「僕」は高い場所から人間界を見て悟った気になっている人なのです。そして、「嘘だと言ってくれないか」と言った鼠は、「僕」とわかり合えないという事実を受け入れたくなかったのです

この小説のメインテーマは「風の歌を聴く」ことです。つまりみんなそれぞれ違うということ、そして孤独であるということ、この孤独を認めることがすなわち自分の周りに吹いている「風の歌を聴く」ということなのです。

「みんな同じさ」という「僕」の熱弁のあとすぐに「小指のない女の子」が一般的とは言い難い境遇であることが判明しますし、「難病の女の子」という極めて過酷な境遇にある人物も登場します。それによって結果的に「僕」の信念が否定されているわけです。

しかし「僕」がそうした信念を持つに至った理由もまた一般化できない特別なものなのです。そして、そういう孤独な「僕」の周りに風は吹くのです。

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