「風の歌を聴け」考察⑤・縮まらない距離

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鼠との会話

噛み合わない会話はこの小説を特徴づけるものの一つです。鼠とのやり取りもそうですし、「嘘つき!」で終わる「仏文科の女の子」とのやり取りもそうです。

たとえば、5章の鼠とのやり取りはこうです。鼠のセリフを緑「僕」のセリフを青に色分けします。

「何故本なんて読む?」

「何故ビールなんで飲む?」
「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない」「何故本ばかり読む?」

「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」
「生きてる作家の本は読まない?」

「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」

「何故?」

「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」

「ねえ、生身の人間はどう?大抵のことは許せない?」

「どうかな?そんな風に真剣に考えたことはないね。でもそういった切羽詰まった状況に追い
込まれたら、そうなるかもしれない。許せなくなるかもしれない。」

「許せなかったちどうする?」

「枕でも抱いて寝ちまうよ。」

風の歌を聴け 講談社文庫 p21~23

この部分について三浦雅士氏の解説を引用します。

鼠は「僕」に「何故本なんて読む?」と問いかける。それに対して「僕」は「何故ビールなんて飲む?」という問で答える。最初の問いは相手の気持を探ろうとしているのだが、後の問いはその問を遮断しようとしている。(中略)それでもなお鼠は本とビールは違うと述べた上で何故と問うのである。だが「僕」はその問をうまくかわしてしまう。たまたま手にしていた本がフローベルであったという理由から「フローベルが死んじまった人間だから」というのだ。死んだ人間に対しては大抵なことが許せそうな気がするが、生身の人間に対しては切羽詰まったら、許せなくなるかもしれない、というのだ。一つの考え方ではあってもこれでは答えになっていない。だから鼠は「許せなかったらどうする?」と畳みかける。「僕」は「枕でも抱いて寝ちまうよ」と答える。これもまた問いの矛先をかわしている。何もしないというに等しいからだ。

三浦 雅士「村上春樹とこの時代の倫理」海 / 中央公論社 13(11) 1981.11 p.p208~219

二人の会話は人間臭い鼠の問いかけを「僕」がことごとく遮断し、そこから逃げ続けているために、意味の無いやり取りになっているのです。だからそこには掛け合いのリズムしか残りません。これが一見するとお洒落で気取った会話の正体なのです。

小指のない女の子との会話

突堤の倉庫の前で

前段の鼠との会話では、三浦雅士氏の言うように「僕」の方からやり取りを遮断しているといえるでしょう。しかし小説の終盤、小指のない女の子とのやり取りでは、お互いに繋がろうとしつつそれが出来ない二人の姿があります。

彼女は自分に幻聴があることを話します。

「一人でじっとしてるとね、いろんな人が私に話しかけてくるのが聞こえるの。……知っている人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ。」

(中略)
「病気だと思う?」
「どうかな。」僕はわからない、という風に首を振った。

「心配なら医者にみてもらった方がいいよ」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p134

幻聴とは自分にしか聞こえない声です。そのため、他人と体験を共有することはできず、分かり合うことが不可能なのです。

「病気だと思う?」と言う彼女に、「僕」は「心配なら医者にみてもらった方がいいよ。」と言います。これは一見まっとうなアドバイスですが、理解を諦めているとも言えます。

ここで「僕」は彼女の手を握ります。

僕は彼女の手を握った。手はいつまでも小刻みに震え、指と指の間には冷えた汗がじっとりとにじんでいた。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p135

手を握ることによって初めて彼女が激しい動揺の中にいることが「僕」と読者に判ったのです。彼女が全く伝えようとしていなかった何かがそこにあったのです。

そして二人は黙り込みます。

僕たちはもう一度黙り込み、突堤にぶつかる小さな波の音を聞きながらずっと黙っていた。それは思い出せぬほど長い時間だった。

気がついた時、彼女は泣いていた。僕は彼女の涙で濡れた頬を指でたどってから肩を抱いた。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p135

「思い出せぬほど長い時間」を二人は黙ります。この長い間、「僕」も彼女もそれぞれの何かの中にいたのです。だから「僕」には彼女がいつ泣き出したのかわからなかったのです。それぞれが持つ共有し得ない何か。そのそれぞれの何かの大きさは「思い出せぬほど長い時間」の沈黙として表れているように思われます。

彼女のアパートで

舞台は彼女のベッドの上に移ります。気温が30度もあるのに彼女は寒がってガタガタ震えます。そして・・・

「怖いのよ」
「何が?」
「何もかもよ。あなたは怖くないの?」
「怖くなんかないさ。」
彼女は黙った。それは僕の答えの存在感を手のひらの上で確かめてみるといったような沈黙だった。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p137~138

彼女は「何もかも怖い」と言い、「僕」は「怖くなんかない」と言います。やはり体験を共有できません。

しかしここで彼女は体験の共有にこだわらず、「怖くなんかない」という言葉の「存在感を手のひらの上で確かめて」いるように感じられたと書かれます。

彼女は会話の中身ではなく、「僕」や「僕」の言葉の存在自体を感じようとしています。彼らは「存在」という次元でしか繋がれないのです。体をただ物理的に密着するという行為もそうした繋がり方の一つです。しかし、体を密着させることによって、言葉の意味では繋がれないという事実をなお一層際立たせることにもなるのです。

「ずっと何年も前から、いろんなことがうまくいかなくなったの。」
「何年くらい前?」
12、13……お父さんが病気になった年。それより昔のことは何ひとつ覚えてないわ。ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いているのよ。」
「風向きも変わるさ。」
「本当にそう思う?」
「いつかね。」
彼女はしばらく黙った。砂漠のような沈黙の乾きの中に僕の言葉はあっという間もなく飲みこまれ、苦々しさだけが口に残った。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p140

「いつも悪い風が吹いている」という彼女に「僕」は「風向きも変わるさ」と応えます。それに対し「本当にそう思う?」と彼女は詰め寄ります。「僕」は「いつかね。」と応えます。

「風向きもいつか変わる」。これは「僕」お得意の一般論ですが、苦し紛れの反応でもありました。だから彼女が黙るとその「僕」の言葉は「砂漠のような沈黙の乾きの中にあっという間もなく飲み込まれ、苦々しさだけが口に残った」のです。「僕」の言葉は「僕」自身にも虚しい慰めとしか響かなかったのです。

そしてこの言葉の虚しさによって、再び言葉に変換されない何かの存在が「僕」にも彼女にも、そして読者にもリアルに感じ取れるのです。

僕たちはそれ以上は何もしゃべらずに抱き合った。彼女は僕の胸に頭を乗せ、唇を僕の乳首に軽くつけたまま眠ったように長い間動かなかった。長い間、本当に長い間、彼女は黙っていた。僕は半分まどろみながら暗い天井を眺めていた。
「お母さん……。」
彼女は夢を見るように、そっとそう呟いた。彼女は眠っていた。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 p140~141

二人は言葉で通じ合うことを諦め、ただ密着してお互いの存在を感じ続けるしかありませんでした。しかし「僕」が長い沈黙だと思っていたものはいつのまにか彼女にとっては睡眠だったのです。これは突堤前で彼女が「いつの間にか泣いていた」のと同じパターンです。

ここでも繰り返し二人の世界が別の何かであることが示されるのです。彼女は眠りによって自分だけの世界に入り、「お母さん」と寝言を言います。お母さんと赤ちゃんは言葉がなくとも通じ会える関係です。

まとめます

この作品の多くの部分では、語りを「一般論」や「数字」に狭く限定することによって、逆に語られない部分の存在を強調させていると言えます。ここでの二人の会話も、自分の気持ちを語れず、距離が縮まらないことによって、二人それぞれの持つ何かの存在を露呈させているのです。

以下は村上春樹がこの作品「風の歌を聴け」について語ったものです。

「他人と違う何かを語りたかったら」とスコット・フィッツジェラルドはある手紙の中で書いている、「他人と違う言葉で語りなさい」。僕はこの小説を書きながらよくその言葉を思い出した。そう、僕は他人と違う何かが語りたかったのだ。誰もが語らなかったような言葉で。

じゃあもっとシンプルに書いてみようと僕は思った。これまで誰も書いたことがないくらいシンプルに。シンプルな言葉を重ねることによって、シンプルな文章を作り、シンプルな文章を重ねることによって、結果的にシンプルではない現実を描くのだ。

村上春樹「自作を語る」台所のテーブルから生まれた小説」村上春樹全作品 1979-1989講談社1990.5(太字・下線はページ作成者)

作者が、使い古された言葉から距離を取り、「誰もが語らなかったような言葉で」「シンプルに」語った「他人と違う何か」とは、これであろうと私は思うのです。つまりそれは、言葉にならない「シンプルではない現実」なのです。

宮川健郎氏は言います。

ことばが語られたとき、同時に、語ることのできない何かが生み出される。語ることのできない何かは、テクストの「余白」となってあらわれる。<年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫>のような「僕」が語った「風の歌を聴け」には、風が吹きぬけていくような多くの「余白」がある。

宮川健郎「風の歌を聴け」論–余白の出現 (現代小説の方法的制覇<特集> ; 村上春樹の幻影宇宙)國文學:解釈と教材の研究 / 學燈社 [編] 33(10) 1988.08 p.p125~127(太字はページ作成者)

この作品において露呈する何かとは「風」とも「余白」とも言いかえることができます。「風」はタイトルになっていますし、ビジュアル的にもこの本の「余白」、つまり印字面にある空白は平均的な小説よりも遥かに多いのです。

作者が目指したものは、シンプルな文章を重ねることによって他人と違う言葉で他人と違う何かを語ることでした。しかし、重ねられたシンプルな文章それ自体の中にその何かは存在しません。それは表現できなかった何かとして、言葉によって解体されることなくそこに存在しているのです。

余白が余白のままそこにあり、風が風のまま吹き続けるように・・・。

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