「僕」が観た夢
「風の歌を聴け」には27章に「僕」の観た夢が記述されています。
僕は嫌な夢を見ていた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P99(27章)
僕は黒い大きな烏で、ジャングルの上を西に向かって飛んでいた。僕は深い傷を負い、羽には血の痕が黒くこびりついている。西の空には不吉な黒い雲が一面に広がり始め、あたりには微かな雨の香りがした。
これまでの記事ではこの作品について書かれた論文や評論を紹介しつつその謎を取り上げてきましたが、この夢を扱った論文・評論は見つかりませんでした。ただ、幸いなことに夢分析は私の仕事の一部ですので私独自にやることが可能です。もちろん、この夢を分析しなくとも作品理解は十分可能ですが、夢を理解することでこの小説の味わいにさらなる奥行きが生まれるように思います。
短い夢ですが、この中には「僕」を理解するための手がかりがたくさん詰まっています。その手がかりを丁寧に取り上げていきましょう。
「僕」の夢の分析
鳥であるということ
「僕」は鳥で、空を飛んでいます。そこはジャングルの上空です。空を飛ぶということは、地表のいろんなことにかかずらうことなく自由に移動できるということです。そして、地表はジャングルです。多種多様で複雑な生態系が形成されている場所です。「僕」はグチャグチャなジャングルから距離を取ってスッキリと上空にいるのです。
落ちるということ
「僕」は深い傷を負っていて羽には血の痕が黒くこびりついています。翼に傷を負っているのです。直前の26章に4ヶ月前に自死した恋人のことが書かれているため、それによる傷つきとも読めます。しかし傷だけではなく、そもそも「僕」はなぜ鳥なのか、なぜジャングル上空なのか、そしてなぜ雨が降り出すのかなどを考えることで、「僕」が置かれている状態を理解することが出来ます。
「僕」は翼に傷を負っているので、「落ちる」危険性に晒されつつ飛んでいるということになります。そして、「雨」とは下に「落ちる」ものですし、黒い雨雲は上方向を遮るため視野を下に限定します。そしてまた「西」とは、東京から見た実家の方角という意味もありつつ、太陽が沈む方角でもありますので、これも「落ちる」ということと繋がります。
この夢は「上から下に落ちる」夢なのです。そして下にあるのはジャングルです。「僕」はジャングルの中に落ちていく恐怖を感じているのです。しかし恐れているのは地表に叩きつけられることではありません。下にあるのがジャングルだということは、「僕」は、簡単には理解できない複雑で多様で生々しい世界に放り込まれるのを恐れているのです。
「僕」の一般論志向
「僕」が夢の中では鳥であるということ。これは(前の記事でも触れましたが)「僕」の一般論志向と関係があります。
「でも結局はみんな死ぬ(p17)」「みんな終ったことさ(p88)」「みんな同じなんだ(p88・p117)」など、一人一人の人間ではなく、距離を取ったところから包括的な観点で上空から人々を観ます。つまりこれは鳥の視点です。しかし人間一人一人は鳥の視点で見分けることが出来ません。「僕」は人間に接近しないまま、遠くから見て結論を出しているのです。
その方が楽なのです。だから「落ちる」ことは「僕」にとって「嫌」で「不吉」なことなのです。こうした「僕」のあり方がまとめられている箇所があります。
街にはいろんな人間が住んでいる。僕は18年間、そこで実に多くを学んだ。街は僕の心にしっかりと根を下ろし、想い出の殆んどはそこに結びついている。しかし大学に入った春にこの街を離れた時、僕は心の底からホッとした。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P106(28 章)
夏休みと春休みに僕は街に帰ってくるが、大抵はビールを飲んで過ごす。
「僕」にとって、生まれ育った街は、ジャングルのような刺激の強すぎる場所だったのです。なので、定期的に帰っては来るものの、ビールを飲んで鼠と中身のない会話をして過ごすのです。しかし、今回の帰省は雲行きが怪しいと「僕」は感じています。今回はジャングルに落ちてしまって、そこにいる生々しい生き物たちと交わらないといけないのではないかと。
鼠の恋人と会う約束
夢を見た日は鼠の恋人と会う日の朝です。鼠は深刻に悩んでいます。そのような鼠とその恋人との関係を取り持つ役割を「僕」は求められたのです。このような場では一般論では逃げられない。「僕」はそう直感しているために、このような夢となって現れたと言えます。
その日、「僕」は約束の時間が午後2時であるにもかかわらず正午に家を出ます。炎天下、スーツとネクタイを着用して。そして車で街をゆっくりとあてもなく巡り、2時ぴったりに約束の場所に着きます。「僕」の緊張感が伝わってくるようです。ところが、待ち合わせ場所につくと、鼠は恋人を連れてきていません。
「彼女は何処にいるんだ?」僕はそう訊ねてみた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P102(27 章)
鼠は黙って本を閉じ、車に乗りこんでからサングラスをかけた。「止めたよ。」
「止めた?」
「止めたんだ。」
僕は溜息をついてネクタイをゆるめ、上着を後ろの座席に放り投げてから煙草に火を点けた。
「さて、何処かに行きますか?」
「動物園。」
「いいね。」と僕は言った。
鼠に「止めたんだ。」と言われて、「僕」はすぐに上着を脱いで煙草に火を点けます。一瞬にして緊張から開放されたのが分かります。そして、「何処かに行きますか?」と問います。すると鼠は「動物園。」と答え、「僕」はそれに同意します。
鼠が止めたのは、自分の中で止めたくなったというのもあるのでしょうが、この役割が「僕」には無理ではないかという判断もあったはずです。そして「動物園」とはジャングルに生息する生き物を安全な距離から眺めることができる場所なのです。ジャングルに落ちるのは「僕」にとっては負担が大きすぎるが、動物園ならば大丈夫なのです。もちろんこれはメタファーですから、実際に動物園に行ったかどうかはわかりません。
でもそれ、まるで鼠の恋人が猛獣だって言ってるみたい
それはちょっと違います。鼠は恋人のことで深刻に悩んでいるのですから、「僕」の前に恋人を連れてくるということは、鼠のリアルな悩みを誤魔化さずに「僕」の前に晒さざるを得なくなるということです。鼠とその恋人の感情は生々しくそして複雑に絡み合っているでしょうから、「僕」からしてみればジャングルにいる本物の動物たちのようなものです。一方で動物園はその動物たちがスッキリと整理された場所ですから、一般論好きの「僕」であっても耐えられるということなのです。
一般論ではカバーできないもの
この作品では「僕」が一般論や数字で人や物事から距離を取ることによって、取り残された存在が浮かび上がるのです。鼠とのやり取りもそうですし、自死した恋人への想いもそうです。そして特に終盤の小指のない女の子とのやり取りにおいて、これがわかりやすい形で現れています。次の記事ではそのやり取りについてお話したいと思います。