「風の歌を聴け」考察③・『小指のない女の子の元カレは鼠だった』説について

目次

衝撃的な事実?

ちょっと衝撃的なので、前回の記事には書かなかったのですが、「小指のない女の子の元カレは鼠だった」という説があります。「僕」が彼女の部屋に泊まったのも親友の元カノを心配したからだとも、その説の中では言われます。

平野芳信氏は「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>(2001.4)」の中で言います。

①「僕」は鼠と彼女の関係を知っていたので、彼女から前の晩のことを問われた時に、ジェイズ・バーに鼠がいなかったことから話し始めたり、 鼠のことを「奴」と呼んだりした(9章P33~34 )。

②「僕」が鼠と彼女の関係を知ったのは、彼女のバッグの中の葉書の差出人が鼠だったからである(9章P36 )。

③彼女から「昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」と訊かれ「ケネディーの話」と「僕」が答えた(9章P43)のは、6章の鼠の書いた小説の一部を彼女が知っていたからである。(6章P26~27)

④鼠が自分の指を数える癖があるのは、彼女に指が9本しか無かったためである。(3章P14)

⑤誕生日プレゼントに鼠が聴いたこともないレコードを贈ったのは、彼女がレコード店に勤めていることを、鼠に伝えようとしているからである。(15章P62)

「僕」に対する彼女の誤解(眠っている間に性的関係を強いられた)が解けたのは、彼女が鼠に会って「僕」が鼠の友人であることを知らされたからである。(22章P90)


斎藤美奈子氏(「妊娠小説」筑摩書房, 1994.6)と石原千秋氏(「謎とき村上春樹」 光文社新書,2007.12)もほぼ平野氏と同じ議論を展開しています。この作品にははっきりしたストーリーがないために、特に一度「風の歌を聴け」を読んだだけの人はこの説を知るとあっさり納得してしまうかも知れません。しかし、この説が論拠としている部分をもう一度読み返してみると、この説がかなり強引なものであることがわかるのです。

この記事では、『小指のない女の子の元カレは鼠だった』説が論拠としている部分を実際の作品から過不足なく引用して検証をしていきたいと思います。

検証しましょう

①「僕」はなぜ小指のない女の子に鼠のことを話したのか

主人公の「僕」は泥酔した「小指のない女の子」の部屋に泊まります。翌朝目を覚ました彼女に「僕」は前の晩の経緯を話します。これについて平野氏は言います。

ここでまず留意せねばならないのは、女の子と出会ういきさつを説明するのに、なぜ「鼠」がいなかったことからわざわざ語り起こさなければならなかったのかということと、「鼠」のことをどのような事情があって、引用文中にあるように、「奴」と表現しているのかという点である。通常、面識のない第三者に向かって、ある人物を「奴」などと呼ぶことは考えられないのではないだろうか。

平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」2001.4

「僕」は彼女に前の晩のことを問われて、かなり長い説明をします。これについて平野氏は『なぜ「鼠」がいなかったことからわざわざ語り起こさなければならなかったのか。それは彼女が鼠と男女の関係にあったことを知っていたからではないか』と言います。

しかしまず、「僕」はその説明を鼠がいなかったことから始めていません。彼女に説明をするように言われた「僕」は「どのあたりから始める?」と訊ねます。それに対して彼女は「最初からよ。」と言います。それを聞いた「僕」は少し戸惑ったあと、以下のように語り始めるのです。

「暑いけれど気持ちの良い一日だった。僕は午後じゅうプールで泳いで、家に帰って少し昼寝をしてから食事を済ませた。8時過ぎだね。それから車に乗って散歩にでかけたんだ。海岸通りに車を停めてラジオを聴きながら海を眺めてた。いつもそうするんだ。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P34(9章)

僕の語りは長く、鼠のこと以外にも関係のない色んなことを話しています。常識的には洗面所で彼女が倒れていたところから話せば良いわけですが、その日の天気、プールで泳いだこと、昼寝をしたことまで話します。「友達」として鼠が出て来るのは語り始めから(文庫本で)6行目です。ジェイズ・バーに行った目的の一つが彼に会うためですから、天気やプールや昼寝と比べれば、鼠のことは遥かに語るに値する事柄です。

また平野氏は『通常、面識のない第三者に向かって、ある人物を「奴」などと呼ぶことは考えられないのではないだろうか。』とも言いますが・・・

30分ばかりして急に誰かに会いたくなった。海ばかり見てると人に会いたくなるし、人ばかり見てると海を見たくなる。変なもんさ。それで『ジェイズ・バー』に行くことにした。ビールも飲みたかったし、あそこでなら大抵は友達にも会えるしね。でもはいなかった

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫 P34(9章)(太字・下線は引用者)

ようやくここで鼠のことが出てくるわけですが、「奴」と呼ぶ前に鼠のことを「友達」と呼んでいます。これならば鼠と面識のないはずの相手に対してであっても不自然さは感じません。もちろん馴れ馴れしい印象は与えます。しかし「僕」はこの時、相手と同じベッドに裸で寝ているのです。すでにこれ以上ないほど馴れ馴れしい状態なのです。

②「僕」 は葉書を読んだか

平野氏も石原氏も「僕」は彼女の葉書の差出人とその内容を読んでいると言います。その葉書は鼠からのもので、「彼女が妊娠していることに触れているのだろう」、そして「僕」はそれを読んで鼠と彼女の関係を知ったのだろう、と言います。しかし、彼女に葉書を読んだかどうかを問われた「僕」の反応はこうです。

「読んだ?」
「まさか」
「何故?」
「だって読む必要なんて何もないよ」
僕はうんざりした気分でそう言った。

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P37~38(9章)

セリフで完全否定した上に「うんざりした気分で」とまで言っている。『「僕」が葉書を読んだ』と考えるなら、ここまではっきりと否定していることを無視することになります。そうなると、この小説の何を信じていいの分からなくなります。ここは「僕」を信じて、葉書を読んでいないと考える以外にないと思うのです。

でも「僕」の言葉は信用できないって、前の記事で言ってたよね

「僕」が嘘をついている場合、それが嘘である証拠が本文中に明確に存在します。しかしここに関してはそんな証拠はありません。

③ケネディーの話の真偽

「僕」は彼女の部屋に泊ったあと、彼女の職場の近くまで車で送っていきます。彼女は「僕」に訊ねます。

「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」
車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。
「いろいろ、さ。」
「ひとつだけでいいわ。教えて。」
「ケネディーの話。」
「ケネディー?」
「ジョン・F・ケネディー。」
彼女は頭を振って溜息を付いた。
「何も覚えてないわ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P43~44(9章)

「僕」が「ケネディーの話。」と答えたことについて、平野氏は「僕」が適当に誤魔化すための嘘を言った可能性もあるとしつつも、以下のように言います。

「僕」がいったことが事実だとしたら、どのような事態が考えられるであろうか。偶然だったのだろうか。仮にそうでないとしたら、「鼠」の小説の内容を女の子が何らかの事情で知りえたとしか考えられないのである。

平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」(2001.4)

「もし本当に前の晩に彼女がケネディーの話をしたのだとすれば、それは鼠と彼女の関係の裏付けとなる」と平野氏は言っています。鼠が主人公になっている小説の一部のような箇所(6章)にケネディが出てくるからです。これは5章において鼠が話した小説の続きという体裁で書かれていますが、それ自体がこの作品の謎の一つに数えられると言えるぐらい異質な部分でもあります。一部だけ引用してみます。

  
鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
  ☆
「私が間違っていたと思う?」女がそう訊ねた。
鼠はピールを一口飲み、ゆっくりと首を振った。「はっきり言ってね、みんな間違ってるのさ。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P26(6章)

鼠と女の会話はしばらく続き、以下のやりとりで終わります。

が死ねばいいと思った?」
「少しね。」
「本当に少し?」
「…忘れたわ。」
二人はしばらく黙った。鼠はまた何かをしゃべらなければならないような気がした。
「ねえ、人間は生まれつき不公平に作られてる」
「誰の言葉?」
「ジョン・F・ケネディー。」

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P27(6章)(太字は引用者)

平野氏は言います『これを鼠が彼女に話し、それを彼女が泥酔した時に「僕」の前で口走った』のだと。

しかし、そもそもこの6章のストーリーは鼠が書いたものでしょうか?
「みんな間違ってる」「人間は生まれつき不公平に作られてる」。この主張は鼠ではなく「僕」の好きな包括的な物言い(一般論です。三浦雅士氏は以下のように言っています。

鼠の物語を「僕」が補完するのだ。再会して女は男に言う「私が間違ってたと思う?」男が女に答える「みんな間違ってるのさ」。こうして鼠の物語は「僕」の物語になる。みんな間違っているということは間違うも間違わないも大差ないということだ。それはおよそ大きな問題などこの世にはありえないという先に述べた「僕」の考え方に接続している。

三浦雅士「村上春樹とこの時代の倫理」海.中央公論社 1981.11 p.p208~219

ここで三浦氏の言っている『「僕」の考え方』とは、「結局はみんな死ぬ(p17)」という言葉に代表される「僕」の一般論志向を指しています。ちなみに全体を一括して表現するのが一般論ですから、「人間は生まれつき不公平に作られてる」も一般論です。鼠は「僕」と対極的で「反一般論」志向なので、そうした一括した表現はしません(鼠の「反一般論志向」について詳しくは以下の記事)。

さらに言うと、「羊をめぐる冒険」のクライマックスシーンで一般論と個別論を扱う話し合いが二人の間で起きています(「羊をめぐる冒険・下」講談社文庫p200~206)。最終的に「僕」は、鼠に「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」と言われているのです。また、この「風の歌を聴け」作中の「僕」の観た夢もこの一般論志向と大きく関係があるのですが、それについては以下の記事にあります。

ともあれ、一般論志向が出てしまっているという意味で、6章は「僕」が鼠に成り代わって書いているのです。また主人公の名が(「僕」がいつも彼のことを呼んでいるように)「鼠」になっているのもそのためですし、鼠の一人称が他では「俺」なのにここだけ「僕」になっているという点からもうかがえます。

「僕」の成り代わり癖

ちょっとここで脱線をします。
「僕」は鼠の小説を鼠に成り代わって続きを書いてしまっていますが、「僕」が勝手に相手に成り代わってしまうところは、これ以外にもいくつかあります。6章はその中で一番大きな部分ですが、それ以外の個所を挙げます。
以下は「仏文科の女の子(=3番目に寝た女の子)」との会話です。

「何故あんなに一生懸命になって橋を作るの?」彼女は茫然と立ちすくむアレック・ギネスを指して僕にそう訊ねた。
「誇りを持ち続けるためさ。」
「ム…。」彼女は口にパンを頬ばったまま人間の誇りについてしばらく考え込んだ。いつものことだが、彼女の頭の中でいったい何が起こっているのか、僕には想像もつかなかった

村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P128(34章)(太字・下線は引用者)

下線部は「彼女は口にパンを頬ばったまましばらく考え込んだ。」の方が自然ではないでしょうか。「僕」はそこをあえて「彼女はパンを頬ばったまま人間の誇りについてしばらく考え込んだ」と言います。彼女が何を考え込んでいるのか分からないはずなのに、「僕」は彼女に成り代わって彼女の頭の中のことを見通しています。ところがその直後、今度は「彼女の頭の中でいったい何が起こっているのか、僕には想像もつかなかった。」と正反対のことを言っています。「僕」は成り代わりモードがオンになってしまうのです。

さらに、別の記事でも触れた34章の冒頭です。

 34

僕は時折嘘をつく。
最後に嘘をついたのは去年のことだ。
嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつき、しょっちゅう黙り込んでしまう。

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 P126~127(下線は引用者)

すでに触れたように1週間前にも2週間前にもサラっと嘘をついていたわけですから「最後に嘘をついたのは去年のことだ。」は嘘です。だから「嘘をつくのはひどく嫌なことだ」も嘘です。したがってこれは「嘘つき!」と言った「仏文科の女の子」の主張に無理に合わせに行った、つまり彼女に成り代わった記述だと考えられるのです。

また、見逃されがちな点ですが、「僕」は「嘘」だけではなく「沈黙」も「巨大な罪」と言っているのです。その理由は「僕」が「仏文科の女の子」から「沈黙」でも責められているからです。以下の部分です。

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか…もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。
「言い忘れてたんだ。」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 P128(下線は引用者)

「僕」は彼女が訊ねるまで「愛してる」も「結婚したい」も言わなかった。このことを「僕」は「沈黙」と呼んでいるのです。このように気持ちを相手に伝えないことを「沈黙」と呼ぶのは一般的ではありません。これはつまり、「僕」が無理やり相手の主張に合わせているために、表現が雑になっていると考えられるのです。

「僕」はこの「沈黙」も「嘘」も「現代の人間社会にはびこる巨大な罪」などとは決して思っていません。以下は「小指のない女の子」とのやり取りです。

「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」
さあね、癖なんだよ。いつも肝心なことだけ言い忘れる。
「忠告していいかしら?」
「どうぞ。」
「なおさないと損するわよ。」
多分ね。でもね、ポンコツ車と同じなんだ。何処かを修理すると別のところが目立ってくる。

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 P89(下線は引用者)

「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」と訊かれていますが、「さあね、癖なんだよ」とか「修理すると別のところが目立ってくる」などと、完全に開き直っています。

理解できない「仏文科の女の子」の気持ちに無理に合わせようとしているために、「現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪」などという大げさで雑な表現になっているです。

④「指を数える」鼠の癖と小指のない女の子の関係

鼠には10本の指を丁寧に点検する癖があります。作品中にはこう書かれています。

鼠はそれっきり口をつぐむと、カウンターに載せた手の細い指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。僕はあきらめて天井を見上げた。1 0本の指を順番どおりにきちんと点検してしまわないうちは次の話は始まらない。いつものことだ。

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 P14

一方、小指のない女の子には左手の小指がなく、両手で9本の指しかありません。そこで石原氏は言います。

ここに、手の指が合計九本の女性が登場する。「僕」の「手記」で「小指のない女の子」と呼ばれている女性である。もちろん、この女性は先の「10本の指を順番順番どおりにきちんと点検」する鼠の癖と関連があるにちがいない。いま、読者の想像力はそのように働いているはずだと思う。

「謎とき村上春樹」 光文社新書,2007.12

石原氏(と平野氏)は「小指のない女の子と付き合っていたために鼠にはこうした癖がついてしまったのだろう」と考えたようです。確かに鼠と彼女は「指」という一つのモチーフを共有しています。しかし、指が一本足りない恋人がいると自分の指を頻繁に点検したくなるでしょうか?これに共感できる人がどれだけいるんでしょう?

単に二人が恋人同士だったというヒントを作者が与えたかっただけなのかもよ。

未熟な推理小説の伏線みたいですね。それ以外の箇所では二人の関係が否定されているように見えるのはどう考えたら良いのでしょう。

そもそも鼠と小指のない女の子はどちらも村上春樹という一人の人間の中にあったイメージです。そうした意味で無関係ではありえないのです。だからこそ「指」を巡るイメージで繋がってしまいますし、同じような境遇にある男女という形にもなり得ます。しかし作者がこの作品で無関係として描いているのであれば、それをそのまま受け取るしかないと思うのです。

⑤彼女のいるレコード店に行ったのは偶然か

レコード店に行ったのは偶然か

彼女の部屋に泊った一週間後、「僕」は彼女が昼間どこで働いているか知らなかったにもかかわらず、彼女の働くレコード店に行ってレコードを買います。石原千秋氏は言います。

「小指のない女の子」のアパートに泊まった次の朝、「僕」は仕事に行く彼女を「港の近く」まで車で送っているのだ。それを知っている読者は、「しばらく港の辺りをあてもなく散歩してから、目についた小さなレコード店のドアを開けた」(六十三ページ)などと書かれても、「おとぼけもいい加減に」と言いたくなるはずだ。「僕」が「小指のない女の子」を探していたのは、あまりにも明らかではないだろうか。

石原千秋「謎とき 村上春樹」光文社新書 2007.12

しかし、「僕」がレコード店に行ったのは、ラジオ番組のDJからの電話がきっかけです。つまり電話によってビーチ・ボーイズのレコードを高校時代の同級生から借りたまま失くしてしまったことを思い出したからです。だから「僕」は本当にレコードを買おうと思っていたはずです。そして「僕」が彼女に気づくまでの様子はこんなふうです。

しばらく港の辺りをあてもなく散歩してから、目についた小さなレコード店のドアを開けた。店には客の姿はなく、店の女の子が一人でカウンターに座り、うんざりした顔で伝票をチェックしながら缶コーラを飲んでいるだけだった。僕はしばらくレコード棚を眺めてから、突然彼女に見覚えがあることに気づいた。

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p61

明らかに作者は偶然の再会を描こうとしています。この文章を読んで「僕」が意図を持って彼女を探し当てたのだと言い張るためには、「こんな偶然あるわけない」といった自分の常識を適用するのではなく、作品の中に「偶然ではない」と言える証拠が必要だと思うのです。こうした偶然も現実には起こりうるのですから。

作者の村上春樹は「偶然」について以下のように語ります。

村上▼小説というのは偶然が非常に大事な表現システムなんですね。偶然がないと物語は進展しない。なぜかといえば、物語というのは集約されたものだから。集約するには何か集約するだけの付着力というか凝縮力が必要なわけで、その凝縮力を生み出すのが「天与のもの」としての偶然なんですね。(中略)ところが、これまでの小説は偶然性を軽んじていた。そんなに物事はうまくいくわけがないと。どちらかといえば事実は小説より奇なりで、現実のほうが偶然性でどんどん進んでいくのに、小説のほうはむしろ整合性の方を重んじていた。でも僕はそうじゃないと。

河合隼雄・村上春樹「こころの声を聴く・現代の物語とは何か」新潮社 1995.1

鼠にレコードをプレゼントをした意味

「僕」はそのレコード店で、借りたまま失くしてしまったビーチ・ボーイズのレコードとともに、ベートーベンのレコードを買います。そしてそのレコードを誕生日プレゼントとして鼠に渡します。

「なんだい、これは?」
「誕生日のプレゼントさ。」
「でも来月だぜ。」
「来月にはもう居ないからね。」
鼠は包みを手にしたまま考えこんだ。
「そうか、寂しいね、あんたが屠なくなると。」鼠はそう言って包みを開け、レコードを取り出してしばらくそれを眺めた。
「ベートーベン、ピアノ協奏曲第3番、グレン・グールド、レナード・バーンステイン。ム……聴いたことないね。あんたは?」
「ないよ」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p66

これについて平野氏は言います。

互いに聴いたこともないレコードを誕生日のプレゼントとして贈り、しかもそれを嬉しいといって受け取る「僕」と「鼠」。「鼠」の誕生日は来月だというのに。そこには明らかに、「鼠」に彼女がレコード店にいることを知らせたがっている「僕」と、そのメッセージを正確に受け取っている「鼠」の姿が透かし絵のようにはめ込まれている。

平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」(2001.4)

平野氏によると「僕」が鼠にレコードをあげたのは、「彼女はレコード店にいる」という「僕」から鼠へのメッセージだというのです。しかし、そもそも彼女がレコード店に勤めていることを鼠が知らなければ「僕」のメッセージは理解不能ですし、かといって知っているのならば知らせる必要はありません。

おそらく平野氏が言わんとしているのは以下の石原氏の言うようなことでしょう。

これは、レコード店で働いている彼女のところへ行けというサインだ。レコードの「包み」が、「小指のない女の子」の働いている店のものであることは、鼠にはすぐにわかるはずだからである。「君たちの関係はこじれている。だから葉書などで済ますな。逃げていないで、レコード店に行け」という、「僕」のアドバイスだ。

石原千秋「謎とき村上春樹」光文社新書 2007.12

「葉書などで済ますな」というのは石原氏が、(彼女が泥酔した時に)カバンの中に入っていた葉書が鼠からのものだと考えているからです。そして両氏とも「この会話は表面上は噛み合っていないが実は二人は通じ合っているのだ」と考えているようです。

しかし、この両氏以外においては、「この作品の登場人物達の会話の中身は噛み合ってない」という評価が多いようです。

伝えようとして伝えることができないこと、他者の心に達しようとして達することができないこと、村上春樹の作品のなかでそれは、主題というよりほとんど前提になってしまっている。

三浦雅士「村上春樹とこの時代の倫理」海.中央公論社 1981.11

1970年の「退屈な夏」をやりすごすために、「僕」と鼠はプール一杯分のビールを飲み干し、床いちめんに5センチの厚さに殻を積もらせるほどにピーナッツを食べ散らかすが、この大量に消費されたビールとピーナッツが二人のあいだに交わされた徒労に近いお喋りの暗喩になっていることは言うまでもない。

前田愛「僕と鼠の記号論–2進法的世界としての『風の歌を聴け』」 國文學 : 解釈と教材の研究 / 學燈社 [編] 30(3) 1985.03

もちろん、その会話が無意味であっても、その会話の無意味さの描写が無意味であるわけではなく、それは言葉という既成の枠組みから距離を置こうとした試みであったと考えられるのです。高橋敏夫氏は言います。

村上春樹にとっての物語は「アプリオリな(最初から当然のものとしてある)状況を離れること」、「遠く離れ」ることによって成立するものであった。
いうまでもなく、このような「距離」は『風の歌を聴け』でもたらされた。物語をつつみこむ「死」と「終わり」は、状況からの「距離」を作り出すための仕掛けでもあったにちがいない。

高橋敏夫「死と終わりと距離と–『風の歌を聴け』論 (長編小説への旅)」國文學 : 解釈と教材の研究 / 學燈社 1998.02(下線は引用者)

平野氏・石原氏の説に戻ります。

両氏の説において、「僕」は直接言葉で言えば簡単な内容を『レコードをプレゼントする』という非常に間接的な手段を選んで伝えています。彼らによれば、その手段で真意が伝わることが当然であると「僕」は判断し、鼠もその真意を受け取ったことになります。

しかし、仮に鼠と彼女がそうした関係にあったとしても、「僕」がレコードをプレゼントした意味は「彼女のところに行け」なのか「かわいい彼女だね」なのか、あるいは「彼女は僕のものだ」なのかわからないはずです。あるいは偶然彼女の働いているレコード店で「僕」が買い物をしただけであって、プレゼントに特に深い意味があるわけではない、と鼠が思う可能性だってあるのです。にもかかわらず誤解なく二人のやり取りが成立すると平野氏・石原氏が考えるのであれば、それは言葉以上にアプリオリな枠組みを鵜呑みにしていることになります。しかし、そうした枠組みこそがまさしく、作者がこの小説においてもっとも距離を置こうとしたものではなかったでしょうか。

⑥彼女の誤解が解けたのはなぜか

彼女は「僕」に意識のない状態で性的関係を強いられたという誤解をしており、レコード店での再会の際にもその誤解は解けていませんでした。しかしその1週間後、彼女の方から電話があります。そして「僕」に「ひどいことを言ったから謝りたい」と言います。これについて平野氏は以下のように述べます。

あれほど重大な誤解(自分が意識を失っている間に、性的関係を強いられたと思い込んでいたことを指す)がこんなに簡単に解けるためには、テクストの空白部分でかなり大きな出来事がなければならないと思われる。なぜなら、彼女の思い込みは彼女自身が「鼠」と直に会い、彼の話で「僕」なる人物が友人であることを知らされてはじめて解ける種類のものだったからである。

平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」(2001.4)

ただ、仮に鼠と彼女がそういう関係であったとしても、このときはすでに別れ話が持ち上がっている状態です。第三者に関する重大な誤解を解くような会話をする余裕はあるとは思えません。そして何よりも、彼女は鼠とはこの時が初対面だということが読み取れる箇所があります。

「あなたの電話番号捜すのに随分苦労したわ。」
「そう?」
「『ジエイズ・バー』で訊ねてみたの。店の人があなたのお友達に訊ねてくれたわ。背の高いちょっと変わった人よ。モリエールを読んでたわ。」
「なるほどね。」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p70

このモリエールを読んでいる「背の高いちょっと変わった人」とは鼠のことでしょう。彼女が鼠をこのように表現するということは、当然、彼女と鼠は初対面だと読めます。そうなるとこの時点で平野氏・石原氏の仮説は崩れてしまいます。

仮説を崩されたくない平野氏は、これは鼠ではない可能性があると言います。

背の高い「僕」の友達とは「鼠」のことのようにも感じられ、ここではじめて四本指の女と彼が出会ったようにテクストの表層部分は演出されている。しかし「鼠」の体格について記述された部分は、テクストのどこにも認められず、真相は曖昧にされている以上、私の解釈も成立する余地は十分に残されているように思える。

平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」(2001.4)

「鼠の体格についてはどこにも触れられていないために真相は曖昧になっている」と平野氏は言います。しかし、体格について触れていなくとも、ジェイズ・バーにいる「僕」の友達は鼠だけのはずです。「あそこでなら大抵は友だちにもあえるしね。でも奴は居なかった。(p34)」のセリフによってジェイズ・バーに通っている「僕」の友達は鼠一人だけだとわかります。また、16章では鼠が小説を読み始めていることが書かれていますから、「モリエールを読んでいる」と作者が彼女に言わせることによって、それが鼠であることを読者に伝えようとしているとしか考えられません。

一方石原氏は以下のように言います。

「背の高いちょっと変わった人」は鼠かもしれない。今度は彼女の方から「僕」に謎かけをしているのだ。
そもそも彼女がジェイズ・バーで泥酔していたこと、そして「僕」の電話番号を知るためにジェイズ・バーに行ったこと自体が、偶然にしてはできすぎだろう。このとき、彼女は「みんな寂しがってたわ」と言ってもいる。彼女にとってもジェイズ・バーは馴染みの店で、鼠とそこでしばしば会っていたとしか考えられない。

石原千秋.「謎とき村上春樹」(光文社新書)(Kindleの位置No.358-361).光文社. 2007.12Kindle版.(下線は引用者)

彼女は意図的に初対面のような言い方をしているが、実のところ彼女はジェイズ・バーの常連で、恋人だった鼠から「僕」のことを聞いて誤解が解けたのだと。

しかし、彼女がジェイズ・バーで泥酔していたことを「偶然にしてはできすぎ」とは言いません。彼女がたまたまジェイズ・バーで泥酔していたからこの物語が成立したというだけです。また、彼女が「僕」の電話番号を知ろうと思ったらジェイズ・バーに行く以外にありませんから、やはり彼女がジェイズ・バーの常連である必要はありません。それに、もし彼女が常連なら、ジェイと顔なじみであるのはもちろん、「僕」ともすでに知り合いになっていたはずでしょう。

で、彼女の誤解が解けたのは何故なの?

泥酔した日の翌朝、彼女は性的な関係を強いられたかも知れないということと同じくらい酔っ払って話した内容の方も心配しています。

以下は泥酔した翌朝に、前の晩のついて彼女が喋ったセリフを抜き出したものです。

「私……何かしゃべった?」

「でもね、意識を失くした女の子と寝るような奴は……最低よ。」

「ねえ、本当に何もしなかったってあなたに証明できる?」

「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p37~43

秘している部分を暴かれるいう意味で、泥酔して知られたくないことを口にしてしまう経験と性的な行為をされる経験は似ています。そしてその後も彼女は知られたくない部分を知られてしまった「僕」とは顔を合わせたくないと感じていた。しかし、いくら泥酔していたからといって話をしたのは自分自身です。彼女は次第に、自分がそういう話をしてしまったことや、「僕」がそういう自分を丁寧に扱ったという事実を少しずつ受け入れていったのではないでしょうか。だから謝るために「僕」に電話をした。

「……私のことを怒ってる?」
「どうして?」
「ひどいことを言ったからよ。それで謝りたかったの。」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p70(下線は引用者)

あの晩、彼女と「僕」との間にあったのは性的な関係ではなく他人に知られたくない彼女の過去だったのです。だからこそ電話の終わり際は以下のようなやりとりになるのです。

彼女はしばらく黙った。
「今夜会えるかしら。」
「いいよ。」
「8時にジェイズ・バーで。いい?」
「わかった。」
……ねえ、色んな嫌な目にあったわ。
「わかるよ。」
「ありがとう。」

村上春樹 「風の歌を聴け」 講談社文庫 p71(太字は引用者)

「……ねえ、色んな嫌な目にあったわ。」はあきらかに唐突です。しかしこれは「あの夜のことを思い出せたわ。私は色んな嫌なことがあったのをあなたに話したよね。」という確認なのです。

まとめます

この作品では、登場人物のやり取りは(洗練されてはいるものの)中身がないことが多く、独白的な語りも一般論や数字に還元され、恋人の自死というショッキングな出来事があったのにほとんど触れられません。このように「語り」が奇妙に制約されていることによって、逆に語られない部分の存在感が増していくのです。そして、その「語られない部分」というのは、容易に言葉にならないから語られないのです。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

村上春樹 「風の歌を聴け」講談社文庫 p7

正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。

村上春樹 「風の歌を聴け」講談社文庫 p8

とあるように、それは「正直に語ること」や「完璧な文章で表現すること」が難しいことであるはずなのです。

そして、この記事ではここまで「小指のない女の子の元カレは鼠だった説」への反論を試みてきました。なぜ私がこの説にしつこく反論したかというと、この説を受け入れることで「風の歌を聴け」という小説の質が変わってしまうからです。この説によると「語られない部分」とは、『鼠と小指のない女の子は恋人関係にある』といった極めて単純で具体的な事柄です。だとしたら文章化したり正直に語ったりするのが難しいはずはありません。難しいわけでもないのになぜ語らないのでしょう。

石原千秋氏は「謎とき村上春樹」の中で「小指のない女の子の元カレは鼠だった説」について

意外にもこの「発見」は研究者や批評家だけでなく、「春樹ファン」の間でさえきちんとは共有されていないらしい。どうやら「都市伝説」のような広がり方しかしてはいないのだ。

石原千秋「謎とき村上春樹」(光文社新書)

と述べ、この説があまり多くの人に受け入れられていないことを訝しんでいます。しかし、この小説を彼らが言うように「実は鼠と小指のない女の子は繋がっているし、僕もそれを知っているんだけど、誰もそれを口にしない」という物語だとすると、意味深なのは雰囲気だけで実は大して深い意味はない小説ということになってしまうのです。

だからこの説を「春樹ファン」が受け入れないのは当然です。

ただ言えるのは、恋人との関係に悩む男女が同じフィールドにいながら、それぞれの相手は別々で、その男女が後にも先も無関係のままであるということ、これは物語としては不自然なことです。なぜなら、そうした男女のイメージが一つの頭の中に存在すれば、形状がマッチするパズルのピースのようにお互いにひきつけ合って物語を作り出してしまうものだからです。それは小説家であろうがなかろうが同じことです。だからこそ、平野氏も石原氏も鼠と彼女に関係があると考えたのです。作者の中でも、鼠と彼女のイメージはそのようにマッチするパズルのピースとして存在していたはずなのです。だから二人には「指」という共通のモチーフがあったのです。

しかし、記事中に書いてきたように、実際の作品で作者は二人を結びつけなかった。そして、安易に結び付けないことによってより深いものが表現された。私はそう思います。

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