僕の大胆すぎる行動
「僕」と「小指のない女の子」との関係は、彼女がジェイズ・バーの洗面所に倒れていたのを「僕」が介抱するところから始まります。「僕」はジェイズ・バーで彼女のことを知っている人を探しますが見つかりません。そこで、カバンの中の葉書の住所を見て彼女のアパートまで送り届けます。朝になり、「僕」が目を覚ました3時間後ぐらいに彼女は目を覚まします。そして「僕」はこう言われます。
「でもね、意識を失くした女の子と寝るような奴は…最低よ。」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P41 (9章)
「でも何もしてないぜ。」
彼女は感情の高まりを押えるように少し黙った。
「じゃあ、何故私が裸だったの?」
「君が自分で脱いだんだ。」
「信じられないわ。」
起きたら全裸で、その上見知らぬ男がいたわけですから、彼女が仰天したり腹を立てるのも無理はありません。一週間後、彼女は「僕」の「何もしてないぜ」を信じるようになるものの、この時点での「僕」は誤解を生む可能性を感じなかったのかという謎が残ります。何もしなかったのならなおのこと、です。
しかも「僕」は部屋に泊まっただけではなく、全裸の彼女と同じベッドに裸(半裸?)で寝ていたのです。
僕は裸のままベッドの背にもたれ、煙草に火を点けてから隣りに寝ている女を眺めた。南向きの窓から直接入り込んでくる太陽の光が女の体いっぱいに広がっている。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P32(8章)
そして、その後も「僕」はベッドから立ち上がった描写がないので、目を覚ました彼女から前の晩のことを問われているときも、「僕」はそのまま裸でベッドの上です。
これじゃあ誤解しない方がおかしいわ・・・
ただ、「僕」が鈍感で無神経な人なのかというと、どうやらそうではないようで、一週間後、彼女との接触に照れを見せています。
彼女は乳首のはっきり見える薄いシャツを着て、腰回りのゆったりとした綿のショート・パンツをはいていたし、おまけにテーブルの下で僕たちの足は何度もぶつかって、その度に僕は少しずつ赤くなった。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P89(22章)
つまり、「僕」は最初に彼女に出会った時が、例外的に大胆であったようなのです。
なぜ僕はこのとき大胆な行動をとったか
「僕」がここで大胆な行動をしたのはなぜかを考えてみます。以下はどれが一つが正解というわけではなく、これらすべての理由が組み合わさって、「僕」の行動を作り出していると考えられます。
①友達に急性アルコール中毒で死んだ人がいるから
彼女に問い詰められて「僕」が答えた内容そのままです。
鞄の中の葉書を頼りに家に連れてこなければならなかったということは、一人で家に帰ることも、住所を言うこともできなかったということになります。そんな人をただ家に送り届けただけで帰れば、翌朝以降死んだ状態で発見されるというのは確かにありうる話です。
しかし「僕」は朝起きてすぐに帰ろうかと思いつつも、そうはしなかったこと。ベッドの上にしばらく居座ったことなどは、これだけでは説明が付きません。
②彼女が好きだったから
これは当たり前過ぎて言うまでもないと思われる人も多いかもしれません。こういうかたちで若い男女が小説に描かれて恋愛的な要素が無いはずがないと言えばそうでしょう。しかし、彼女のことが好きで、かつ何もしなかったのであれば、誤解を与えないようにしたいという気持ちが働きそうです。
③彼女の自殺を危惧したから
「僕」は恋人を自殺で失っています。しかもそれはつい4か月ほど前の出来事です。そして、小指のない女の子も悩み苦しんでいることを知った。そのため、彼女の自殺を危惧した。彼女は一人でとんでもない量のお酒を飲んだわけですから、それだけでも何か辛いことがあったのだろうと想像はつきます。それに加えて彼女は泥酔状態の中、辛い現状に関することを口走ったと考えられます。
彼女は泥酔して悩みを話した
彼女から訊かれて「僕」が答えた内容からすると、昨晩の彼女は自分の家の住所も言えないくらいですから、意識がもうろうとして会話もままならないような状態を想像します。しかし、以下の部分からその想像が少し違うことがわかります。
「私……何かしゃべった?」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P37(9章)
「少しね。」
「どんなこと?」
「いろいろさ。でも忘れたよ。たいしたことじゃない。」
彼女は何かをしゃべったのです。「僕」の「少しね。」も「いろいろさ。でも忘れたよ。たいしたことじゃない。」も『わりと重めの内容をしゃべったけど、ドンマイ』というニュアンスが感じられます。もしこれを文字通りに受け取ったら「少し」なのに「いろいろ」だったり、「忘れた」のに「たいしたことじゃない」と断言したり、「僕」のセリフは矛盾だらけですから。
「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの?」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P43~44(9章)
車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。
「いろいろ、さ。」
「ひとつだけでいいわ。教えて。」
「ケネディーの話。」
「ケネディー?」
「ジョン・F・ケネディー。」
彼女は頭を振って溜息を付いた。
「何も覚えてないわ。」
その後「僕」は彼女の職場の近くまで車で送ります。彼女はずっと気になっていたのでしょう、あらたまった感じで再び「どんな話をしたの?」と問います。しかし、それは「車を下りる時」です。訊こうかどうしようか迷っていたせいでこのタイミングになったのかも知れません。あるいは、何を話したかを知りたい気持ちと知りたくない気持ちが両方あって、下りる直前ならば、時間的な問題でそれを知れたとしてもちょっとだけになるから、という目算もあったのかも知れません。
「ひとつだけでいいわ。教えて。」と言われた「僕」は、「ケネディーの話。」と言います。しかし、ケネディーの話を彼女が本当に話したことなのかどうかは非常に怪しいと思います。昨晩彼女の話した内容を彼女に伝えたくないのはこれまでの「僕」の反応からして明らかですから。ケネディーのことを話したとしても少し触れた程度であって、それは重要なポイントではないでしょう。でなければ彼女は「ケネディー?」などと聞き返さないはずです。
ちなみに「僕」がここで「ケネディーの話。」と答えたのは、とある説の論拠の一つになっています。この説においては彼女が本当にケネディーの話をしたと考えられているので、私の考えとは異なります。しかし興味深いのでこれについては次の記事で扱いたいと思います。
彼女は何を話したか
小指のない女の子は、泥酔して一番悩んでいることを口にしたのです。だから「僕」は知っているのです。ここに挙げるシーンはそれを前提に読めば普通に理解できるのです。
以下は彼女が「僕」の家に電話をしてきたシーンです。泥酔した日の翌朝も、その1週間後にレコード店で再会した時も、彼女の態度は「僕」に拒否的であったわけですが、この電話では一転して彼女の方から誘っています。
「8時にジェイズ・バーで、いい?」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P71(18章)
「わかった。」
「……ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」
「わかるよ。」
「ありがとう。」
これまでの二人の関係からすると、彼女の「ねえ、いろんな嫌な目にあったわ。」というのは唐突です。つまりこれは、泥酔した時に自分が話してしまった内容にあたりをつけ、「僕」にそれが知られていることを前提としたセリフでしょう。そして、そういう意味のセリフであることを感じ取った僕も「わかるよ。」と応答しています。
次に終盤、デートをして彼女の部屋のベッドに二人で入ったシーンです。
「私とセックスしたい?」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P138(36章)
「うん。」
「御免なさい。今日は駄目なの。」
僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。
「手術したばかりなのよ。」
「子供?」
「そう。」
手術と言われてすぐに「子供?」というのは勘が良すぎると言えますから、泥酔した時に、妊娠したことを話しているからなのでしょう。また、それとともに男と別れたことも話したと考えるのが自然でしょう。
彼女が死ぬんじゃないかと「僕」 が思ったのはわかった。でも、これもいつまでも同じベッドの中にいた理由にはなってないよ
たしかに、そのとおりです。
④死んだ恋人と同一視したから
「僕」は小指のない女の子を死んだ恋人の再来としてとらえているという考えが複数の評論家から提出されています。もちろん突然に恋人を失ってしまえば、その面影を別の女性に見てしまうというのは普通に起こりうることでしょう。しかし、「僕」のこの大胆さは、面影を見る程度のレベルではなく、小指のない女の子を死んだ恋人そのものとして扱ったということです(田中実「数値のなかのアイデンティティー『風の歌を聴け』-」「日本の文学」第7集 1990.6・鈴木忠士「村上春樹『風の歌を聴け』ー分身の輪舞ー(1)」1999.6 岐阜経済大学論集・平野芳信「村上春樹と<最初の夫の死ぬ物語>」2001.4など)
実際、「僕」も裸の状態で小指のない女の子のベッドに居続けたのは、34章で恋人とベッドの中にいた描写とかぶります。
去年の秋、僕と僕のガール・フレンドは裸でベッドの中にもぐりこんでいた。そして僕たちはひどく腹をすかせていた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P127(34章)
「何か食べ物は無いかな?」僕は彼女にそう訊ねてみた。
「捜してみるわ。」
二人で裸でベッドにもぐりこんだ状態で「ひどく腹をすかせていた」とあって、長い間そういう状態でいたのだろうなと思わせます。これは二人にとっての日常だったのでしょう。そうした日常を過ごした恋人と小指のない女の子との区別が、「僕」 は、ついているようなついていないような混乱した状態だったのではないでしょうか。
じっくり読み返してみると、恋人の死の影響は、これ以外にも「僕」のいろんなところに顔を出しています。
たとえば叔父、祖母、ハートフィールドの死について語ったり、鼠との会話では・・
「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P17(3章)
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」
村上春樹「風の歌を聴け」講談社文庫P22(5章)
(中略)
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
この小説には「死」という言葉が50回以上出てきます。仮に「僕」がもともと死について考えることが多い人であったとしても、それは直近の「死」、つまり4ヶ月前の恋人の死によって「僕」の中で「死」とそれと繋がる連想が芋づる式に活性化していると考えることが出来ます。「死」以外にも「虚無」であったり「断絶」であったり、あるいはある種の「麻痺」であったり、そうしたものがこの作品を覆う空気になっているのです。
井口時男氏は以下のような趣旨のことを言っています。
『風の歌を聴け』はたくさんの物語のコラージュで構成されているが、どれも同じくらいの重要度で特権化された物語が無いように見える。しかし、そこには特権化された唯一の物語が隠れており、他の物語の間にさり気なく挿入されている。それが死んだ恋人を巡る物語である、と。
特権化されないことによって、唯一の物語は、逆に、すべての物語の背後に忍び込む。「語る僕」は「語られた僕」から身を引いて、雰囲気のようなものとなって全体に浸透する。
井口時男「伝達という出来事–村上春樹論」群像 38(10) 1983.10 P156~157
「僕」は恋人の死についてはあっさりと語ることしかしていませんが、「僕」の言葉や行動によって、その背後にあるもの、つまりとり残された「僕」の気持ちの存在を間接的に味わうという読み方が、この作品はできるのです。あるいは、言葉にされない「僕の気持ち」は、言葉にされないがゆえに既存のパターンとして片付けられることなく、その存在そのものがむしろ直接描かれているとも言えるのです。