村上春樹「風の歌を聴け」考察

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この小説の「あらすじ」とは

村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」は、一読しただけでは、なんのストーリーも読み取れないような、まとまりのない小説です。実際、この小説のあらすじを教えて欲しいと言われて、すぐにそれに応えられる人はほとんどいないのではないでしょうか。

では、文庫本の裏表紙を見てみましょう。

一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した“僕”は、友人の“鼠”とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、“僕”の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。

「風の歌を聴け」 村上春樹 講談社文庫の裏表紙

だいたいこんな印象ですよね。一番登場シーンが多いのは「僕」と「鼠」で、二人でビールをやたら飲んでたなあ、と。それと「僕」と「介抱した女の子(小指のない女の子)」との関係は良いところまで行くんだけどそれっきりだったなあ・・・みたいな。

実はこの小説をどう読むかを巡ってたくさんの評論・論文が書かれています。

まず、小説が出版された5年後の1984年に三浦将士という人によって書かれた評論ではこの作品のあらすじが以下のようにまとめられています。

恋人に自殺された大学生が夏休みに帰省し、妊娠しているにもかかわらず男に捨てられたらしい若い女とふとしたことで知り合う。若い女はレコード店の店員である。男と女は互いの暗い体験を語り合うこともせず、何度か会う。女が中絶手術を受けた後のある夜、二人は何もせずに抱き合って眠る。二人にとってそれは最後の夜になる。

三浦雅士「村上春樹とこの時代の倫理」 海 中央公論社1981.11

「僕」は恋人に自殺されたのでした。自殺した恋人とは「仏文科の女の子」つまり「僕が三番目に寝た女の子」のことです。「僕」が帰郷し、鼠とビールを飲んでいるのが1970年の8月ですが、恋人の遺体が発見されたのは同じ年の4月です。たった4か月前の出来事なのです。「僕」にとってこれはものすごく重大な事件であったはずです。にもかかわらず、小説内ではこのことについての「僕」の気持ちの描写が全くと言っていいほど無いのです。

一度読んだだけでは、風のようにさわやかな小説という印象であるにもかかわらず、作者は、恋人が自殺した4か月後という舞台設定をあえて選んでいる。なのに、主人公はそれに関する心情を表に出さないまま小説は幕を閉じてしまう。

風の歌を聴くために

こう考えると、この小説には表に出ていない大事なことがたくさんあるのではないかという気がしてきます。たしかに読み返してみると、謎めいた部分がいくつも見つかります。そして、これまでたくさんの評論・論文がこの謎を解こうとしています。

そうした評論・論文の中のには、無関係に見える登場人物の関係を無理やりつなげてしまうものもあります。もちろん、作中の登場人物がすべて村上春樹という一人の人間の中から出てきたイメージである以上、複数の登場人物が同じモチーフを共有するのは自然なことです。しかし、ストーリー上では繋がっていない。このことを大切にしないと、この小説の味わいを損なってしまうと私は考えます。この小説の味わいは、タイトル通りに「風の歌を聴」くことにある、と思うのです。

考えたらもう「風の歌を聴け」なんて20年くらい読んでないんです。いろんなことを忘れてしま いました。自分の書いたものって恥ずかしくてなかなか読み返せないんですよね。
人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人が理解しあうことなんて不可能です。 それは絶対的な真実です。僕らはみんなスプートニク衛星に乗って、地球のまわりをぐるぐるまわって、そのうちにどこかに消えていくライカ犬みたいなものです。

村上春樹 少年カフカ 新潮社2003.6. reply to 650

これは、かつて「海辺のカフカ」が出版された直後から半年間ほど公開されていた公式ホームページにおける作者と読者とのやりとりです。引用部分は読者が「風の歌を聴け」についての質問をした時の作者の返答の一部です。

「20年くらい読んでない」とのことなので、20年を経て作者に残っている「風の歌を聴け」のエッセンスの一つは、この「理解し合うことなんて不可能」ということになると言えます。作者はこのあとディスクジョッキーについて語りますが(それについてはまた別の記事で触れるとして)、まずは作者がこの小説の登場人物を人工衛星に乗ったライカ犬のようなイメージで描いているのだということが確認されたのです。作品中にはその衛星が浮かんでいる広大な宇宙空間が、「無」や「死」あるいは「距離」、そして「風」として表現されているのです。

登場人物たちは理解し合えないのです。彼らはバラバラです。でも、彼らのあいだには風が吹いている。読みながらその風の歌に耳を澄まし、その匂いをかぎ、その肌触りを感じること。それがこの作品を楽しむということではないでしょうか。

ですからこの作品を楽しむためには無理に謎を解く必要はないのです。わからないことをわからないままに「風の歌」として楽しめるのがこの作品なのです。

しかし、謎の解き方次第ではさらに風を感じることもできるとも言えます。次の記事からは、この作品についての様々な評論や論文を参考にしながらも、この作品をより深く味わえる観点から謎について考察していきたいと思います。

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