
「たいやきくん」の記事では、「猫とねずみのおつきあい」や「トルーデさん」に「教訓がある」と書いた。しかし、これはたいやきくんに救いがなさすぎるためであって、実は、おとぎ話における「教訓」はあまりコアな要素ではない。勧善懲悪的な教訓が入り込むのは、キリスト教など宗教が影響を及ぼしてからである。
おとぎ話は数千年ものあいだ人々に語り継がれてきたものが多い。これらは特定の作者がおらず、無数の人々に語り継がれるうちに、個人の特殊な事情は削ぎ落とされ、人間のこころに普遍的に存在する骨格だけが残っていったのである。つまり、これらは誰かの作り話ではなく、人類が気の遠くなるような時間をかけて抽出した、こころの内容物の結晶と言える。
したがって、ここで現れているのは、道徳的な良し悪しではなくて、「ただそういうもの(just-so)」なのだということである。これはユング派の心理学者であるM.L.フォン・フランツが提唱した概念である。
「猫とねずみのおつきあい」であれば、猫がいくら悪くても、そして、ねずみがいくら正しくても、猫はねずみを食べるものであって、その残酷な現実から逃れることは出来ないということである。
「トルーデさん」の話も、女の子が悪いことをしていなくても、「強い奴にはあっさり殺されてしまう」ということであり、「死神の名付け親」なら「死からは誰も逃れることが出来ない」ということだ。
「ただ、そう」なのだ。「なんで猫はねずみを食べるのか」「なんで強いやつは弱いやつに負けるのか」「なんでみんな最終的には死ぬのか」と考えたところでどうにかなるものではない。。
主人公が死ぬ物語だけではない。グリム童話の初版本では「ヘンゼルとグレーテル」を森に捨てたり、「白雪姫」を殺そうしたのが、「継母」ではなくて、「実母」であったということは有名な話だが、これも「ただそういうもの(just-so)」として受け止めるしかない。
口減らしのために実の子どもを殺すということは実際にあったし、自分よりも若くて美しいからと実の娘を憎むことはある。良いとか悪いとか言ってもしょうがない。「ただそういうもの」なのだ。「猫はねずみを食べるもの」と同様、それは条件次第で現実になりうる。
「白雪姫」の母親のように、若いわが子の美しさが妬ましいという気持ちが出てくることもありうる。しかし、それを悪いことだと思ってもどうにもならない。それは、この世の中に実際に存在するありふれた感情なのだ。諦めるしかないのだ。その上で、行動しなければ良いだけの話である。毒リンゴを食べさせたりしなければ良いのである。
「ただそういうもの」とは、それが世界の理(ことわり)だと認識することである。そしてそれは「自分にはコントロールできないもの」だとわかることであり、それは自分と別の存在だと諦めることである。
それを善悪で判断しようとするのは、その感情を自分でコントロールできるという思い上がりがあるからである。その思い上がりを持ち続けると、それをコントロールしようとトライし続けることになる。そして逆にそこから離れられなくなってしまうのである。