ラジオ番組であるということ
この記事では、ニッポン放送(ラジオ)で50年間続いているテレフォン人生相談の内容の中から実例を挙げて相談者と回答者のやり取りを考察していきたいと思います。
一般に「人生相談」と「カウンセリング」は本質的には同じものとして考えて良いと思います。しかし、それはあくまでも第三者のいないところで行われる場合です。不特定多数に向けて発信するラジオ番組となると、カウンセリングとは根本的に違うものと言えます。
どこが違うか。まず一つ目はラジオ番組はリスナーを楽しませる必要があるということです。いくら相談者のためになっていても、リスナーが退屈したり、反感をもったりするようなものになっては困るわけです。
以上のような制約の中で作られているということが一つ。
二つ目は、放送された内容が全てではない可能性があるということです。この番組は生放送ではないので、カットされている部分もあると思われます。また、相談を選別する際に大まかな相談内容をスタッフが確認しているでしょうから、その相談内容は事前に回答者にも伝わっているでしょう。なのでリスナーとして私達が知ることのできない情報をも踏まえた上での対応になっている可能性があるということです。ですので、この後から実例を挙げる中で、回答者さんに対して批判的になっている部分もありますが、あくまでも放送された内容が全てだと仮定した場合に、それとカウンセリングとの相違点だと思って読んでいただければ幸いです。
三つ目。言葉の内容だけではなく、声のトーンや質によってかなり印象が変わるということです。ここでは文字化して引用させていただいていますが、このページだけを読まれる人は、音声という情報を得ることができません。一方、これはテレフォン人生相談のリスナーの一人として感じることですが、相談の内容以上に相談者の話し方や声の質・トーンよって、回答者さんたちの応答が変わってくるようです。
四つ目。ここではカウンセリングとの違いを浮き立たせるために、私が「ちょっと違うんじゃないかなあ」と思った放送回を選んでいます。別の回では相談者の状況にマッチした良い対応を聴けたことが何度かあります。また、どの回も一般的なカウンセラーよりも言葉はかなり強いですが、時間も限られていますし、エンターテインメント的な側面があることも考慮に入れれば、このあたりが落とし所なのかなと思うことが多いです。
小学2年生の娘を持つ女性からの相談
小学校2年の娘を持つ女性からの相談。相談員は加藤諦三氏と大原敬子氏です。正式には加藤諦三氏はパーソナリティ、大原敬子氏は回答者という名称の役割のようですが、実際の役割にそれほどの違いはないように思われます。
以下できるだけ、実際の会話に忠実にお伝えしようとは思います。「相談内容」の部分は厳密には逐語ではありませんが、その後の「相談者と加藤氏のやり取り」以後は逐語です。
相談内容
加藤氏 | どんな相談ですか? |
相談者 | 娘は現在小学2年生ですが、1年生の時の担任(女性)がすごく意地悪な人でした。ある日、ママ友からこんなことを言われたんです・・・ 「娘子ちゃん大丈夫?授業中に娘子ちゃんが教科書のどのページを開いたら良いか分からなくなっている時、担任の先生が周りの子たちに『教えなくていいよ』というふうに言っているって。 それを聞いて驚いて、連絡帳にそのことを書いたんです。そうしたら担任から電話があって「娘子ちゃんだけではなく、何回言っても聞かない子には同じことやってるんですよ」と。同じことをやってるから『安心してください』的な言い方だったんですね。私はそれには納得できなくて、校長先生にクレームを入れたんです。それで結果的にその先生は担任を外されたんです。 |
加藤氏 | はい。 |
相談者 | それで先々週のことなんですけど、娘が学校に水筒を忘れたため、私は一緒に学校に行ったんです。でも教室に鍵がかかっていたので、職員室の前まで行って、娘に「ちゃんと『鍵を開けてください』と言いなさい」と言って、私は陰から様子を見ていたんです。でも娘はもじもじして動こうとしない。その状態で2~3分くらい経ちました。するとそこに1年の時の担任が職員室から出てきたんです。そして娘をキッと睨んで行ってしまったんです。 |
加藤氏 | ええ |
相談者 | 「どうしたの?」くらい普通言うじゃないですか。それが許せなくて。どういうふうな心の持ちようでいたら良いんだろうと。 |
相談者と加藤氏のやり取り
相談者がひと通り話し終わり、ここから加藤氏とのやり取りが始まります。大事なところですので、以下は逐語です。
相談者 | 「どうしたの?」くらい普通言うじゃないですか。それが許せなくて。どういうふうな心の持ちようでいたら良いんだろうと。 |
加藤氏 | あなたがその先生にどういう気持ちで接するかと。ただ問題・・ |
相談者 | あ~と、子供にです。私はそんなに会うことがないので別に |
加藤氏 | ただ問題はですね、あなたが、その担任の先生が信じられないっていうところに問題があるわけですよね。 |
相談者 | まあ私だけじゃないですけどね。子供もですけど。 |
加藤氏 | だから事実はこうだったというよりも、一番の問題というのは先生が意地悪な人で信じられないというところが問題、だというふうには解釈できないですか? |
相談者は何を悩んでいる?
相談者の話をひと通り聞いた加藤氏はその相談の中身をまとめるように「あなたがその先生にどういう気持で接するか(ということですね)」と言いますが、相談者の反応を待たずに、「ただ問題は・・」と言い始めます。
さらに、ここまで相談者は『どういう気持ちで接するか』を知りたいとは言っていません。すでにその先生は担任を外れていますから。そのためにわざわざ人生相談に申し込むのも不自然な気がします。
相談者さんが言ってることをそのまま信じるなら「元担任に対してどういう気持でいたら良いか」というだけの相談ということになるけど。
そうなんです。そして「自分よりも子供のほうだ」と繰り返し言っていますから、相談者自身ではなく、「娘が元担任の先生に対してどういう気持でいたら良いか」という相談ということになるでしょうか。
でも、娘さんだって担任じゃない先生とは接しなくても良いはずだよ。
そこも謎なんです。だから確認すべきところはいっぱいあるんです。なのに加藤氏は相談者の返事を待たずに「問題は・・・」と言い始めてしまう。それに対して相談者は繰り返し「子供も」と言っていますから、はっきり言えることはただ一つ、子供のことが心配だということです。しかし、加藤氏はその部分を無視し続けます。
相談者は何に納得できなかったのか?
加藤先生が言ってる「信じられない」というのは、電話で担任が言った言葉、つまり「何回言っても聞かない子には同じことやってる」を相談者さんが事実として受け入れられないってこと?
そこも含めて色々はっきりしないのです。相談者は先生から電話があって説明を受けたわけですが、「納得できなくて校長先生にクレームを入れた」とのことでした。しかし何に納得できなかったのか、大事なところですが、はっきりしていません。
色んな可能性がありますが、例えばこんな感じでしょうか。
- 「担任から言われたことが信じられない。本当は娘だけが意地悪をされている」
- 「担任から言われたことが嘘だとは思わないが、そもそもやってることが意地悪だ」
- 「担任から言われたことは嘘だとは思わないが、娘は話を聞いていないことが多いので、結果的に娘ばかりが意地悪をされる」
罰が公平な基準で与えられていたとしても、結果的に同じ子ばかり血祭りにあげられるということは往々にしてあります。小学校1年生の集中力は背の高さと同じで成長のスピードによって左右される部分が大きく、本人の努力や心構えで何とかなるものではありません。なので公平な基準に従っていても特定の子に罰が集中することが多くなります。しかもその罰はイジメのような罰です。
「問題はあなたの中にある」
加藤氏 | だから事実はこうだったというよりも、一番の問題というのは先生が意地悪な人で信じられないというところが問題だというふうには解釈できないですか? |
相談者 | そうですね。それに、わたしの考え方もちょっとひん曲がってるのか、ちょっと意地悪だと思ってしまってて、いいように全部取れないんですよね。その人の行動について。 |
加藤氏の「だから事実はこうだったというよりも」の「事実」とは、その前の相談者の「子供もですけど」というセリフを指しています。つまり加藤氏はここではっきりと『子供のことよりもあなたが元担任を信じられないのが問題』と言い切っています。
しかし子供のことは相談者にとって大切な問題です。それを相談するために人生相談に申し込んだのです。こんなふうに自分の言いたいことを無視された状態では、仮にそれが正しい助言であっても心には響かないものです。
「問題」って何?
さて、ここまで加藤氏は「問題」という言葉を使い続けてきていますが、実際のカウンセリングにおいて「問題」という言葉を使う場合、相当慎重にならねばなりません。
慎重になるべき理由は二つあります。
一つ目は、「問題」という言葉に、【厄介で取り除かれるべき対象】という意味があるからです。ですから「あなたに問題がある」と言われたら、言われた側は自分の存在を否定されたと感じる場合も多いのです。そういう意味の「問題」という言葉は非常にネガティブな意味を持っています。
二つ目。「問題」という言葉が『誰が、何をするにあたっての「問題」か』ということを明らかにしないままに、まるで普遍的な真実のように使うことができてしまうということです。そういう使い方はとても傲慢に思えます。
たとえば加藤氏の言っている「問題」とは誰が何をするにあたって「問題」なのでしょう?相談内で「問題」というからには、相談者が望んでいることを実現するあたっての「問題」でなくてはなりませんが、加藤氏は相談者が何を望んでいるかをしっかりと確認していないのです。
ですので、もし、現実のカウンセリングで「問題」という言葉を使うとしたら、相談者が嫌なこと、困ったことについて語るのを聞いて「なるほど、そこが問題なんですね」と返答するなどの使い方をします。もしくは、相談者の望んでいるところをはっきりと踏まえたうえでなら「(それを実現するにあたって)そこが問題なんじゃないですか?」と指摘することはあるかも知れません。いずれにしても、必ず相談者の文脈の中で使われなくてはなりません。
カウンセラー自身が問題だと思っていることは言わないの?
「問題」という言葉は意味が曖昧なくせに強い響きをもっているので、個人的には使いたくありません。私がカウンセリング内で自分の感じた「問題」を言うとしたら、「問題」という言葉は使わずに「そこは急いで対処した方がいいと思います」とか「もう少しそれを意識した方が良くないですか?」とか、できるだけ具体的に言うと思います。
「自分なりに考えてます」
相談者 | そうですね。それに、わたしの考え方もちょっとひん曲がってるのか、ちょっと意地悪だと思ってしまってて、いいように全部取れないんですよね。その人の行動について。 |
相談者は「それに、私の考えもちょっとひん曲がってるのか・・・」といったん引いて自分側の要因を言っています。
相談者さんが加藤先生の言ったことを受けれ入れたってことかな?
「それに」と言ってますから、『あなたの言ってることはともかく、私は私なりに自分のことを冷静に観てますよ。感情的になっているのは自分でもわかってますよ』ということを言わんとしていると私は思いますがどうでしょう?
私たちが何かに悩んでいてそれを他の人に話すとき、たとえば「私が感情的だから良くないのかもしれないけど」と自分側の要因を言うことがあります。しかし、それに対して「そうだよ、あなたが感情的だから良くないんだよ」と言ったら、ムッとして「話が通じないな」と思ったりします。つまり相談する人が自分側の要因を話すとき、それは「自分でもすでにわかっていることなのでそこは指摘しないでほしい」と思っていることが多いように思います。
加藤先生は「先生が意地悪な人で信じられないというところが問題」と言ったのを、相談者さんは「意地悪な先生であることが問題」と受け取ったから「それに」と言ったのかと思った。
加藤氏は最初ははっきりと『あなたが先生を信じられないのが問題』と言っているけど、その次は「先生が意地悪な人で信じられないというところが問題」とぼかした言い方になってますね。これだと『先生が意地悪な人であるのが問題』なのか『あなたが先生を信じられないのが問題』なのかわかりづらい。でも、相談者は加藤氏の最初の発言も覚えているでしょうし、複雑なコミュニケーションになっていますね。
信じられない人はいないか?
加藤氏 | あなたは今、大変近い人で信じられないっていう人います? |
相談者 | うーん今はいないと思います、たぶん。あんまりそんなに私深く考える人間じゃないので、バカなので |
加藤氏の発言は大胆です。「信じられないのは先生のことじゃなくて、本当は別の人なんじゃない?」と言います。
その質問に対して相談者は自分のことを「深く考える人間じゃないので、バカなので」と言います。これは自嘲しつつ『あなたの言っていることは理解できません』という意味でもあるでしょう。無理もありません。『元担任に意地悪をされた我が子が心配だ』という話を相談したら、『あなたが担任を信じられないのが問題』と言われ、さらに『身近で信じられない人はいるか』と、話はとんでもない方向に向い始めたわけですから。
ちなみに私がこういう場面で、相談者に「私はバカなので」と言われたらすぐに謝ると思います。それは自分が『高度なことを言った』からではなく、『相手の心に響かないことを言った』と思うからです。
専門家ってそうやって思いがけない視点を提供するものじゃないの?
たとえば、何らかの機械の故障についてその道の専門家に訊いたら、思いがけない返答が返ってくることはあるでしょう。むしろ専門家にはこちらが考えも及ばなかった視点を提供してくれるのを私たちは期待します。しかし、対象が『心』である場合、その前にその『心』とそれを取り巻く環境について語ってもらう必要があるのです。それも、かなりの量の言葉を尽くしてそうしてもらう必要がある。なぜなら心はその持ち主にしか認識できないからです。
ところが、この相談者は語る時間をあまり与えられていません。加藤氏は相談者の心を殆ど見ずして、専門家チックなことを言おうとしているように見えます。これはかなり無謀なやり方です。そして、語っている内容を相手がしっかりと聴いてくれないとなれば、相談者から語りたい気持ちが失われてしまい、相談者の心はさらに見えなくなっていきます。
エクスターナリゼーション
加藤氏 | こういう場合ね、二つのケースが考えられて、一つが本当にこの担任の先生が意地悪な人だっていう場合と、あなたが誰か信じられないっていう人がいて、エクスターナリゼーションっていって、その信じられないっていう人を置き換えちゃう、この担任の先生に。 |
加藤氏が言っているのは「本当に担任が意地悪」なのか、もしくは「本当は別の人が信じられないんだけど、元担任のことを『信じられない』と言っている」のか、どっちなんだろうということです。
しかし、加藤氏は最初から「あなたが先生を信じられないのが問題」と言っていたわけですから、「担任が意地悪」という言葉を端から信じていなかったはずです。「先生を信じられないのが問題」と繰り返す加藤氏自身が相談者を全く信じていないのです。
加藤氏はこの件に関する情報をこの相談者からしか聞いていないはずです。なのになぜ、加藤氏は相談者の話を信用しないんでしょうか。不思議です。
また、エクスターナリゼーションとは聞きなれない言葉ですが、日本では「外在化」と訳され、こちらの訳語のほうが遥かに一般的です。それは心の中にあるものを外に出すことを言います。たとえば悩みを誰かに話したり、心のもやもやを絵に描いたりすることです。しかし加藤氏は「心の中のことを現実に起きていると認識する」という意味でおそらく使っており、そうしたエクスターナリゼーションの使い方は特殊です。
夫との関係?
相談者 | あーそれは、たぶん、ごめんなさい。無いと思います。私そんなに、自分のことやったら、こんなにあんまり怒らないので、はい。 |
加藤氏 | 例えば、ご主人との関係は非常にうまくいってるわけですね? |
加藤氏のエクスターナリゼーション説(?)に対しては「無いと思います」と相談者は答えます。そして、「自分のことやったらこんなにあんまり怒らないので」、つまり、怒るのは子供のことだけだと言っています。
しかし、加藤氏はやはりここでも相談者の言葉をスルーします。そして、夫との関係について質問します。相談者が望んでいる話の方向性は別にあるのに夫の話を出してくること自体が強引ですが、その質問の仕方が「ご主人との関係は非常にうまくいってるわけですね」です。非常にうまくいってなければダメなのでしょうか?
私は昔からこの人生相談を聴いているんですけど、他人のことが心配で相談する人に対して、それが実は自分の抱えてる問題だったというパターンが多いのよ。そういうパターンを私もついつい期待してしまいますし、他のリスナーさんもそうじゃないかな。
加藤先生もリスナーの期待に応えようとしているのかも!
それにね、相談者にもテレフォン人生相談のリスナーさんが多いのよ。だから、中には加藤先生に「あなたの問題です」と言ってもらいたくて相談する人もいるのよ。
なるほど、そういうお約束のパターンがあって、加藤氏はいつものようにそこに持ち込もうとしたが、この相談者はそっちを望んでいなかったということですね。
それと加藤先生の声ってとても優しいの。だからここで文字だけを読むと厳しいことを言ってるみたいですけど、実際のお声を聴くときっと印象が変わるわよ。
確かにソフトでとても感じの良いお声ですよね。だからリスナーとして聞いていると優しく諭しているように感じられるかもしれません。でも実際に今回の相談者の立場に置かれたらやはりいい気持ちはしないだろうなと私は思います。
でも、加藤先生が言うように、悩みって「結局は自分の問題」ってことが多いと思うよ。
いや、それどころか突き詰めればすべての悩みが自分の問題だといえます。しかし、だからこそ、それを真正面から指摘することが良いこととも限らないのです。その当たり前のことをことさら強調したところで解決するわけではないのです。
たとえば、「子育ては自分育て」というのは真実でしょうが、子育ての悩みをすべて自分の問題と考えると自責の念ばかりにとらわれて現実の子供との距離が生まれてしまったりします。だから「自分の問題」とは考えず、我が子にとって何が良いのかを一生懸命考えて接することで、結果的に自分自身も成長していくのが子育てではないでしょうか。
「夫婦の問題じゃないことを確かめたかった」
相談者 | ま、普通です。そんなに良くもなく悪くもなくですね、はい。 |
加藤氏 | うん、こういう場合に一番問題なのは、実は一番信じていないのは、夫婦関係っていうことがよくあるんですよ。これ、夫婦を信じないっていうともう大問題ですから。そういうケースでないということを今ちょっと確かめようと思って。 |
相談者 | うーん |
「ま、普通です」と相談者は応えます。
それに対して、加藤氏は「こういう場合に夫のことを信じていないことが良くあるから、それだと大問題だから確認したのです」と言います。夫のことを信じないのが大問題だとしても、子供のことは無視して良いほど小さな問題なのでしょうか?
また、そこまでやって相談者が夫のことを信じているかどうかを確認できたのでしょうか?
そこをそんなに知りたかったのなら、担任の先生を辞めさせた話や、先々週の出来事についてもっと耳を傾けていれば良かったのです。これらは相談者自身が持ってきた話題ですから、質問をすれば色んな話が聞けたでしょう。そうすれば「担任辞めさせ騒動」の中で相談者の夫がどんな役割を果たしたかなど、もっとリアルな情報が得られたでしょう。
先々週の件も、夫に話したかどうか、話したらどう反応したかなども聞けたのです。その内容や口調で相談者が夫のことを信じているかどうかなんて簡単に明らかになったでしょう。
加藤氏 | 話をきいたんですけれども。分かりました。今日はだから、あなたは今こういうことで、お嬢さんが、苦労してると思うんですけれども、どうしたらいいでしょうかっていうのが相談ですね? |
相談者 | はい、そうです。 |
テレフォン人生相談には二人の回答者がいます。正確には加藤氏は「パーソナリティ」という役柄のようです。最初に相談の対応をするのがパーソナリティで、その後に対応するのが回答者ということになっています。
パーソナリティである加藤氏は、この日の回答者である大原敬子氏にバトンタッチをするために、相談者の相談したいことをまとめます。この時、加藤氏は自分がこれまで主張し続けてきたことではなく、ずっと相談者が言い続けてきた方向に沿ってまとめます。なので相談者は「はい、そうです」とあっさり肯定します。ただ、「お嬢さんが苦労してる」というその苦労の内容がほとんど明らかにされていません。そしてその後の大原敬子氏によっても明らかにされませんでした。
大原氏によるこの後の展開もそれを省略して良いのかどうか迷うくらいのインパクトの強いやり取りが続きます。しかし、とりあえず、やり取りを扱うのはここまでにして、相談者とその子供の気持ちに添った考察をしてみましょう。
相談者が伝えたかったこと
相談者が話した出来事を勝手に想像を膨らませながら振り返ってみます。
1年生の時のできごと
まずお子さんが1年生の時の出来事についてです。
先々週のモジモジして動けなかった出来事からも分かるように、娘さんはとても内気なようです。これは1年生の頃も同じだったでしょう。お子さんの中にはいろんな不安があって、授業中に集中することができない子がいます。あるいは、もともと発達障害があるため集中力がなく、そのために怒られることが続いて内気になってしまう子もいます。そうしたお子さんに対して、先生が「教えなくても良い」と周囲の友達に言うのが非常に残酷であるのは間違いありません。本人を直接注意するほうがまだマシです。元担任はその時、本人ではなく本人の人間関係に手を加えたのです。これはイジメと同じですし、子供たちによる普通のイジメをも誘発します。
娘さんの様子について語られる時間が相談者にはほとんど与えられていないのではっきりは言えませんが、子供の頃のこうした傷つきの影響はとても長く続くことがあります。そう考えると、相談者の怒りは当然のことに思えてきます。
先々週のできごと
おそらく相談者は娘さんが内気であることを心配しています。なので娘さんが水筒を学校に忘れたとき、相談者と娘さんと学校の職員室の前まで行き、「ここからは一人でやりなさい」と娘を送り出します。しかし、娘さんは動き出そうとせずモジモジしています。相談者は娘さんに内気を克服してほしかったのでしょう。一人で職員室に入り、先生にお願いできて、先生がそれに応えてくれれば、娘にとって大きな成功体験になり、一歩前進できる。相談者はそう考えたと想像します。
しかし、娘さんはなかなか動き出さない。それを見ながら相談者も神経をすり減らしていたでしょう。2〜3分モジモジしていたとのことですが、この2〜3分というのはモジモジし続ける娘さんにはかなりの長さです。相談者にとっても、娘の様子を覗き続ける2〜3分はかなり長い。相談者自身も誰かに見られて怪しまれているかも知れません。自分が職員室に行ったほうが遥かにラクです。諦めて出ていこうか、でも娘には成功体験をして欲しい、もうちょっと待ってみようか・・・。
すると娘の前に先生が現れました。「助かった?」、そう思ったら例の元担任でした。そしてあろうことか、娘を睨んで去っていったのです。相談者は我が子が勇気さえ出してくれれば成功体験が出来ると信じていたでしょう。しかし、その期待は裏切られ、娘をさらに傷つける結果になってしまったのです。
お母さんが怖いから話さなかった?
加藤氏もその後に登場した回答者(大原氏)も、1年生の時の「先生の意地悪」を娘さんが母親(相談者)に話さなかったのは、相談者の性格のせいではないかと考えているようです。
でもその可能性はあるんじゃない?一人で先生を辞めさせちゃうくらいの怖いお母さんだから
回答者は二人とも、その相談者一人のクレームで担任をやめさせたと思っているようです。そのことから「怒るととても怖い人」と決めつけてそれを「問題化」しようとしているように見えます。しかし、とりあえず押さえておきたいのは、たった一人のクレームで担任を外されるのは滅多にないということです。また、何人からクレームが来たかなどというのも、学校側から明らかにされるものでもありませんので、ここは決めつけない方が良いのではないか、というのがまず一つです。
しかし、なぜ母親に報告しなかったかに関しては、それより遥かに大事なポイントがあります。それは、小学1年生はその先生の行為を「意地悪」ではなく「正当な罰」だと認識しただろうということです。「正当な罰」だと思えば「自分が悪い」わけです。自分が悪くて先生に怒られたとき、私たちは母親に報告したでしょうか?
しかも娘さんが「集中して先生の話を聞いていられない」のは努力でどうにかなるものではないのです。努力でどうにもならないことで「自分が悪い」と感じるのは、ものすごく深い傷付きです。そして、そういう時に人はなかなかそのことを他の人に打ち明けられません。
相談者さんによれば、「子供が先生のことを信用できない」ということだから、子供さんは「悪いのは先生」と思っているのかも?
そこのところも加藤氏は質問するなりしてしっかりと確認しなければいけなかったと思います。
「信用できない」という言葉は加藤氏が使い始めたもので、相談者がそれに応答する形になってしまっています。本来ならここは相談者自身の言葉で語ってもらう必要があったのです。相手の言葉に応答しようとして出てくる内容と、一から自分の言葉で語る内容が大きく違うのはよくあることですから。
そもそも、あの状況で「悪いのは先生」と思えるような子供が、職員室の前でモジモジするだろうかとも思います。
「自分は悪くない、先生が意地悪なんだ」と思えるような小1はそうとうタフだよね。
本当にそうです。そんな風に思える1年生は飛び抜けて大人びているか、もしくはどんな理由で怒られても「意地悪だ」「怒りんぼだ」で済ませてしまって、逆に周りが大変かもしれませんよね。
お母さんはそんなに怖いのか?
モジモジに関してもう一つ思うことがあります。娘さんは「お母さんが『入りなさい』と言うけど職員室には入りたくない・・・」とモジモジしているのです。もちろん積極的な子なら職員室に入ることに躊躇しません。しかし内気な子であってもお母さんのことが怖かったらその場合もやはり躊躇しないはずです。つまり、この子がモジモジしているのは「お母さんの命令」と「職員室に入りたくない自分の気持ち」とがせめぎ合っているからです。別の言い方をすれば娘さんはお母さんにその2~3分間抵抗しているのです。めちゃくちゃ怖いお母さんに対してそんな抵抗が出来るでしょうか。
再びエクスターナリゼーションについて
加藤氏の言うエクスターナリゼーション(externalization)とは「心のなかで起きていることを、外で起きていると認識すること」のようです。しかし加藤氏と同じ文脈でこれを使っている人はほとんどいないようです。もちろん臨床心理学・精神医学などの分野にはこれに近い概念はいくつも存在しますが、どれも加藤氏のエクスターナリゼーションよりも細分化された意味を持っています。
つまり加藤氏のエクスターナリゼーションは概念としては大まかすぎて使う場面が無いと言えます。なぜ加藤氏だけがこの言葉を使うか。その理由はこれがラジオの人生相談番組という極めて特殊な状況においてのみ利用価値のある概念だからではないでしょうか。
ラジオでオンエアされるという性質上、自分自身のことについて語るのは怖いので、自分とはそれほど関わりのない人について相談しようとする人が一定数存在します。大抵の場合それは余計なお世話なのです。なのにそんなことをなぜ相談しようと思ったか、それについて短時間で結論を出そうとすれば「それはエクスターナリゼーションだ」ということになるのでしょう。
しかし、そもそも人は”エクスターナリゼーション”抜きでは外界を認識できないのです。このあたりはソクラテスやプラトンともつながるような、非常に哲学的なテーマです。たとえば、「木」というのは一本一本すべて違うものです。しかし、私たちは「木」を見たら「あれは木だ」と思います。始めて見た「木」であっても何故「木」とわかるか。それは「木」のイメージがすでに心の中にあるからだと言えます。
哲学を持ち出さなくとも、自分がイライラしている時は他の人もイライラしているように見えますし、絶望した時には、目の前が本当に暗くなったりします。これらすべて正常なことです。相談者が自分じゃない誰か・何かについて語るとき、それによって自分の心を語っているのです。それで良いのです。カウンセリングとは人間の心が外部に投影されるという性質を利用して行われるものなのです。